小田原
おだわら
上方と関東を結ぶ幹線道路である東海道が甲州道と分岐する要衝に位置し、戦国期、関東一帯を支配した戦国大名・北条氏の本拠として栄えた城下町。
鎌倉期、足柄道にかわって東海道の本道となった箱根道の宿場町として発展したとみられ、『太平記』の康平三年(1361)の記事で「小田原ノ宿』がみえる。また宝徳四年(1452)の鎌倉府禁制には「小田原宿関所」とあり、宿場町としての重要性が増し、関所も設けられていることがわかる。
明応四年(1495)頃、伊勢宗瑞が小田原城を奪取して以降、小田原は城下町としての性格を強めていったと思われる。また16世紀前半には中国人外郎氏の一族(あるいは被官)で薬商人の宇野氏が京都から下ってきて小田原に店舗を張っており、小田原の経済的成長をうかがうことができる。天文二十年(1551)に小田原を訪れた南禅寺の僧・東嶺智旺は、小田原について「町の小路数万間、地一塵無し。東南は海なり。海水小田原の麓を遶(めぐ)るなり。」と記しており、海に面した大都市の様子を伝えている。
また東嶺智旺の見た「地一塵無し」の小田原の背景の一つには北条氏の施策がある。北条氏政は元亀三年(1572)に家臣・岡本政秀を「掃除検使」に命じて松原神社社中の掃除方法を示している。これは草の刈り方から作業終了時刻まで定めた詳細な規程であり、北条氏は都市の美化につとめるとともに、このような規程を通じて都市の掌握を図っていたともいわれる。
その後、天正十年(1582)卯月二十七日付の宮前町商人頭・賀藤氏に宛てた朱印状には「多年武州上州上総下総者問屋致し来る由に候」とあるように、関東各地から商人が訪れて取引をしており、北条領国の「首都」として関東経済の中心となっていた。
小田原には小規模ながら港もあったとみられる。天正五年(1577)ごろ、北条氏政書状に青磁や砂糖、茶碗などを積んだ中国船とみられる船が着岸したことが記されている。書状の中に「現来」とあることから、小田原に着岸した可能性が高く、戦国期の小田原には外国船が入港していた可能性を示している。
また慶長十二年(1607)に来日した朝鮮通信使の記録『慶七松海瑳録』によれば、このとき通信使一行が宿泊した小田原大蓮寺に葉七官という唐人がたずねてきている。葉七官は中国福建の人で、乗船中に遭難して小田原に漂着し、帰国しなかった十余人とともに小田原で生活していたとのことであった。小田原には唐人が住む集落があり、これが江戸期の小田原唐人町の起源となったといわれる。
神社・寺院
- 松原神社
- 蓮上院
- 教徳寺
- 永昌院
- 玉伝寺
- 一花寺
- 安国寺
人物
- 紙屋甚六:小田原を拠点とした奈良出身の紙商人。
- 宇野定治 :京都外郎家の被官。小田原外郎家の祖。
- 宇野家治 :定治の子。北条氏御馬廻衆。
- 賀藤:小田原宮前下町の奉行をつとめた問屋商人。
- 津田藤兵衛
- 弥左衛門
- 善左衛門
- 須藤惣左衛門
- 山田二郎左衛門:小田原新宿の鋳物師。北条氏のもとで鋳物師の棟梁に任じられた。
- 狩野玉楽:小田原狩野派として活躍した絵師。
- 岸和田:鉄炮の流派・岸和田流の開祖。氏康の時代に関東に下って炮術を伝えた。
- 山上宗二:和泉堺出身の茶人。羽柴秀吉の茶頭であったが、追放されて小田原に来住した。
- 葉七官
商品
城郭
- 小田原城
参考文献
- 『小田原市史 原始・古代・中世』 1998