宇野 定治
うの さだはる
16世紀前半頃の北条氏の家臣。藤右衛門尉。中国出身の薬商人である陳宗敬(陳外郎)を祖とし、京都で透頂香(外郎)という丸薬を扱っていた京都外郎家の出身。江戸期に成立の「陳外郎家譜」には、定治は陳祖田の子で、北条早雲(伊勢宗瑞)の招きにより京より下った小田原外郎の祖とある。
享禄四年(1531)、北条氏綱は制作を進めていた「酒伝童子絵巻」の詞書や奥書の礼金を、定治に命じて近衛尚通や三条西実隆に届けさせている。この内、奥書を担当した三条西実隆の日記である『実隆公記』享禄四年(1531)閏五月二十一日条によれば、この日、外郎家の青侍が奥書を揮毫する料紙を持って訪れた。手土産は薫衣香や透頂香であった。同年六月二十二日に「外郎被官卯(宇)野」がやってきたので、実隆は認めた奥書を渡している(『実隆公記』六月二十二日条)。
『実隆公記』に「外郎被官卯野」とあることから、定治が京都の外郎家の家臣と認識されていたことが分かる。定治はこの時には既に北条氏に仕えていたとみられるが、依然として本家筋の京都外郎家と緊密な関係にあったとみられる。このため、外郎家が交流を持っていた幕府要人や文化人たちとの折衝を氏綱から期待されたのだろう。
なお、定治はこの年に小田原城下に寺院を建立しているため、おそらく永正年間には小田原に下向し、北条氏と被官関係を結んだものと考えられる。
天文八年(1539)二月三日付の北条氏綱判物写によれば、定治は「河越三十三郷之内今成郷」(埼玉県川越市)の代官に任命されている。永禄二年(1559)作成の『役帳』には、宇野家治(定治の子)が川越領今成で二百貫四百六十五文の地を所領としていることが記されており、今成の地が定治の代官職を経て北条氏直轄領から宇野氏の所領となったことがうかがえる。
関連人物
- 宇野家治
- 伊勢宗瑞
- 北条氏綱
- 三条西実隆
- 近衛尚通
その他の関連項目
- 透頂香
- 狩野元信筆「酒伝童子絵巻」
参考文献
- 「戦国時代の小田原の絵画動向」 (『小田原市史 原始・古代・中世』 1998)
- 鳥居和郎 「宇野定治」 ( 戦国人名辞典編集委員会・編 『戦国人名辞典』 吉川弘文館 2006)