狩野元信筆「酒伝童子絵巻」

しゅてんどうじえまき

 源頼光による大江山の鬼退治を描いた絵巻物。全三巻。相模の北条氏綱によって企画され、大永三年(1523)頃より制作がスタートした。

 サントリー美術館(東京都港区)に所蔵されている「酒伝童子絵巻」の各巻の奥書によれば、全巻の絵を「狩野大炊助藤原元信」(狩野派の絵師・狩野元信)が担当し、上、中、下巻それぞれの詞(ことば)を「太閤 近衛准三宮 前関白太政大臣」(近衛尚通)、「法務大僧正公助 定法寺」(定法寺公助)、「ニ品尊鎮法親王 青蓮院」(青蓮院尊鎮)が書いている。制作に関わった人物はいずれも当代を代表する文化人たちであった。

 「酒伝童子絵巻」の成立過程については、詞書の筆者である近衛尚通の日記『後法成寺関白記』から知ることができる。同日記の大永三年(1523)九月十三日条によると、尚通は北条氏綱のもとめに応じて「酒伝童子絵巻」の詞書を書き、氏綱はその礼として千疋(だいたい十貫文)を送ってきた。尚通の執筆を斡旋したのは将軍家の同朋衆である相阿弥であった。
 絵巻の奥書は三条西実隆が認めた。享禄四年(1531)閏五月二十一日、外郎家の青侍が実隆のもとへ「酒伝童子絵巻」の奥書を揮毫してもらうため、料紙を持ってきた。手土産は薫衣香、透頂香などの薬であった。実隆は奥書を同月二十八日に認め、六月二十二日にやってきた「外郎被官卯野」に渡している(『実隆公記』)。

 氏綱の使いとして尚通や実隆のもとに赴いた「外郎被官卯野」(『実隆公記』)とは、京都外郎家の出身で北条氏に仕えていた宇野定治である。「外郎被官卯野」との表現があるように、定治は京都の外郎家の被官でもあった。北条氏綱はこの定治と京都外郎家の人脈を利用することで、絵巻の制作を進めていたのである。

 なお、「酒伝童子絵巻」はこの後、徳川氏の手を経て江戸期に池田家に渡る。すなわち北条氏直に嫁いでいた徳川家康の娘・督姫が天正十八年(1590)に離縁した際、北条氏より持ち出し、池田家に再嫁した時に持参したと伝えられている(『池田家履歴略記』)。

 

関連人物

  • 北条氏綱
  • 宇野定治
  • 狩野元信
  • 近衛尚通
  • 三条西実隆

その他の関連項目

  • 「後三年合戦絵巻」:平安期の後三年の役を描いた絵巻。同じく督姫によって北条氏から持ち出された。

参考文献

  • 「戦国時代の小田原の絵画動向」 (『小田原市史 原始・古代・中世』 1998)