南禅寺
なんぜん じ
京都東山に伽藍を構える臨済宗南禅寺派の大本山。南北朝期、室町幕府により京都と鎌倉の五山の上位に位置づけられ、最高位の禅宗寺院として繁栄を極めた。
南禅寺の前身
南禅寺の前身は文永元年(1264)に亀山法皇が母のために建てた「禅林寺殿」と呼ばれる離宮。禅宗に帰依する法皇により正応初年頃、東福寺住持・無関譜門が住持に迎えられ、禅林禅寺という禅寺にあらためられた。無関の死後は法皇の意向により、広く住持となる人材を求める十方住持制がとられている。
なお乾元元年(1302)の院宣には「南禅寺」の語がみえ、この頃には禅林禅寺から南禅寺へと改められていたことが分かる。
「天下第一五山之上」
建武政権期、南禅寺は後醍醐天皇から五山の第一とされ、ついで南北朝期、室町幕府により五山の制が整えられると、ここでも五山の第一とされた。さらに足利義満は、新たに建立した相国寺を五山に列するにあたり、至徳三年(1386)、南禅寺を「天下第一五山之上」と位置づけた。
この時期には延暦寺との抗争で三門が破却されたものの、朝廷と武家の後援で伽藍の大改築が完了しており、南禅寺は名実ともに繁栄を極めていたと思われる。
戦乱の中で衰退
しかし応仁元年(1467)九月、南禅寺は応仁の乱の兵火により、寺全体が焼失する。同時に後援者であった幕府権力が失墜し、武士による所領の押領で収入も激減していき、南禅寺は冬の時代を迎えることになる。
京都府左京区南禅寺福地町