山上 宗二(薩摩屋宗二)

やまのうえ そうじ

 和泉堺の納屋家出身の茶人。屋号は薩摩屋。千利休の高弟として知られる。宗二の子の道七と交遊のあった奈良の茶人久保利世が著した『長闇堂記』によれば、宗二は「上手にて、物もしり、人におさるる事なき」茶湯者であったが、一方で「口悪きものにて、人のにくしみものなり」ともいわれ、歯に衣きせぬ物言いによって、人の憎しみを買うことも多かったようである。

 永禄八年(1565)五月、宗二は朝会を催し、千利休や草部屋設、武野宗瓦、今井宗久の四人を招いている(『今井宗久茶湯日記書抜』)。茶道会における宗二の活動が史料上にみえる早い例であるが、既に利休と交流があったことがうかがえる。今井宗久は日記の中で「高麗茶碗 初テ開キ也。土薬面白ク、ミゴト也。」と記しており、宗二が新たに入手し、茶会で披露した高麗茶碗を高く評価している。

 天正元年(1573)十一月、宗二は京都妙覚寺の茶会に招かれたことを契機に織田信長の知遇を得る。信長の側近であった明智光秀や細川藤孝とも茶湯を通じて親睦を深め、とくに藤孝は「初ハ薩摩屋宗二の弟子なり」(『茶湯四祖伝書』)といわれるほど親しかった。

 後に天下人となる羽柴秀吉とは天正九年(1581)頃に接触をもったとみられ、この年に宗二は播磨姫路に出陣中の秀吉を訪ね、秀吉が所持していた茶壷「四十石」を拝領している。その後も秀吉との交流を深め、秀吉の茶頭の一人となる。自著『山上宗二記』の中で、「関白様召し置かる当代の茶湯者」として利休や宗久、宗及らとともに自身の名を挙げており、宗二の茶湯者としての自負のほどがうかがえる。

 そんな中の天正十一年十月、宗二は秀吉から追放処分を受ける。この時「牢人」となって北国へ赴く宗二のために津田宗及が送別の茶会を催しているのである。(『天王寺屋茶会記』)。宗二は翌年五月には堺に戻って茶会を催し(『天王寺屋茶会記』)、さらに翌月には徳川家康と合戦中の秀吉のもとでの茶会にも招かれているが、天正十三年五月の津田宗及主催の茶会(『天王寺屋茶会記』)を最後に堺衆の茶会の記録からはみえなくなる。
 堺を去った宗二は天正十四年(1586)、大和郡山の羽柴秀長のもとで茶会を催している(『松屋会記)。その後高野山にのぼり、天正十六年二月、和歌山城主桑山重晴に茶湯書『山上宗二記』を与えている。

 宗二は、重晴やに宗二記を与えた後に、関東の北条氏のもとに下向する。北条氏規の側近とみられる林阿弥に与えた宗二記の奥書には天正十六年五月吉日あるので、この頃には小田原に来住していたとみられる。小田原ではさらに北条氏の家臣・板部岡融成や下野皆川城主・皆川広照に宗二記を与えている。宗二の小田原下向は、この地の茶湯文化の興隆に大きな影響を与えたとみられ、『北条記』には、宗二の小田原下向により茶湯が大流行し、「御屋形」(北条氏直)をはじめ、諸人これを弄んだことが記されている。

 天正十八年(1590)四月、秀吉による小田原攻めが始まると、宗二も皆川広照らと小田原城の篭城に加わったが、その後、秀吉に投降した。しかし『長闇堂記』によれば、茶会の席で「秀吉公にさへ、御耳にあたる事申し」たために「その罪に耳鼻殺がせ給ひし」という残酷な刑によって惨殺されてしまったという。

関連人物

  • 山上道七:宗二の子。伊勢屋。
  • 薩摩屋宗忻:堺の町衆。宗二の一族か。
  • 千利休
  • 津田宗及
  • 今井宗久

その他の関連項目

参考文献

  • 「山上宗二と小田原」 (『小田原市史 原始・古代・中世』 1998)
  • 熊倉功夫・校注 『山上宗二記 付茶話指月集』 岩波書店 2006