蜜柑(東海地方)

みかん

 戦国期、相模や駿河などの東海地方で栽培されていた蜜柑。北条氏や徳川氏をはじめとする有力者間の贈答品にも用いられた。

 日本全国でも史料上で蜜柑の存在が確認できるようになるのは室町時代以降であるが、相模や駿河などでは古くから柑橘類の栽培が行われていた。10世紀に成立した『延喜式』諸国貢進菓子によれば、柑子が遠江、駿河、相模、阿波、因幡から、橘子は相模から貢納されていた。地域的には太平洋岸の東海地方の国が多く、温暖なところで採れた柑子が選ばれていたと考えられている。戦国期の東海地方の蜜柑栽培には、このような平安期からの柑橘類栽培の技術が背景にあったとも考えられる。

 戦国期に入ると相模を本拠とする北条氏の贈答品にたびたび蜜柑がみえるようになる。戦国大名間では大永四年(1524)十一月、北条氏綱は越後の長尾為景に蜜柑や酒樽を送っている。また永禄十一年(1568)十一月に北条氏政が上総の武将・井田胤徳に蜜柑と酒を贈っていることや、天正十三年(1585)に北条氏直が下総の幡谷氏に蜜柑一合を贈った事ことをはじめとして、北条氏が配下の武将をねぎらう為に蜜柑を贈っている事例は多くみられる。

 贈り物には土地の特産品を充てることが多いので、これらの蜜柑は北条氏の本拠・小田原の周辺で生産されたものとみられる。このほかにも天分年間に北条氏家臣の伊東氏が古河公方・足利晴氏の家宰・簗田高助に蜜柑一籠を贈っている例がある。この蜜柑も相模産もしくは伊東氏の本拠のある伊豆国で生産されたものかもしれない。いずれにせよ、蜜柑は太平洋沿岸地域の特産品であり、当時の関東地方では珍重された菓子であったことがうかがえる。

 蜜柑が駿河においても特産品であったことは、天正十年(1582)九月に徳川家康が甲斐滞在中の飯田氏に「駿州名物」と述べて蜜柑一箱を贈っていることからわかる。相模と同じく駿河でも古来からの柑橘類栽培を背景に蜜柑の生産が始まっていたものと思われる。

市場・積出港

  • 小田原:戦国大名・北条氏の城下町。

参考文献

  • 盛本昌広 『贈答と宴会の中世』 吉川弘文間 2008