紙屋 甚六

かみや じんろく

 戦国末期、相模小田原を拠点に紙の販売を行っていたとみられる商人。大和国奈良興福寺の多聞院英俊の日記である『多聞院日記』にその名がみえる。

十二年ぶりの奈良

  『多聞院日記』には天正十六年(1588)五月十一日条に「紙屋甚六、相州ヨリ登ルトテ来ル。国紙三帖持チ来ル。十二年帰ラズト申ス。」とある。また同年閏五月十四日条に「甚六、相州小田原ヘ帰ル由申シ来ルノ間、ユエン(油煙=墨)三丁遣ワシオワンヌ」とも記してある。甚六が元来は奈良の出身で、十二年前の天正初年頃に奈良を離れ、天正十六年の時点では相模小田原を本拠としていることが分かる。

甚六の活動範囲

  甚六は「紙屋」を名乗り、「国紙」を多聞院に持参していることから小田原に居を構える紙商人だったとみられる。関東の紙の主産地は武蔵の小川(埼玉県小川町)・越生(同生越市)方面であり、甚六はこれらの関東の産地から紙を買い入れて小田原で販売していたとみられ、広域の営業をしていたことがうかがえる。また奈良の多聞院英俊を訪問していることから、上方にも販路を持っていた、あるいは販路を広げようとしていた可能性も考えられる。

  戦国期の小田原には他にも甚六のように上方から移ってきた多数の商人、職人が住んでいた。甚六の例のように、彼らも上方との間を往来し、あるいは遠隔地交易に携わったことが想定される。

関連人物

  • 多聞院英俊

その他の関連項目

参考文献

  • 『小田原市史 原始古代中世』 1998