能美氏

のうみ し

 安芸国能美島(現在の広島県江田島市)を本拠とした海賊衆。能美氏の出自は不明だが、能美島大原の小領主だったともいわれる。その後、能美島や江田島の他の小領主らと連合したと考えらえる。おそらく能美氏自体も庶家が分立していたと推定される。

能美島の大原地区にある能美城跡。現在は大原ふれあい広場として整備されている。
能美島の大原地区にある能美城跡。現在は大原ふれあい広場として整備されている。

大内氏の警固衆

 室町期に周防大内氏の勢力が安芸国に伸びてくると、その傘下の警固衆(水軍)となった。応仁元年(1467)七月、倉橋や呉、警固屋の警固衆とともに海路で上洛する大内軍の先陣をつとめている。大永年間での安芸国における尼子氏と大内氏との抗争でも大内方に属し、広島湾沿岸部諸所での合戦に加わった。

厳島合戦後

 天文二十三年(1554)、毛利氏が大内氏と敵対して安芸国南部に侵攻。能美氏は最終的には大内方についたため、毛利方の攻撃を受けた。厳島合戦後、能美島には新たに地頭として来島村上氏が入る。能美氏は来島村上氏の家臣として存続した。

Photos

現在の大原湾。能美水軍の拠点の一つだったとみられる。 寳持寺(江田島市大柿町大原)近くの墓地の宝篋印塔。16世紀から17世紀初期のものか。 能美城跡近くの薬師堂境内にある宝篋印塔の残欠。

当主

  • 能美秀家:鎌倉期の人物。能美荘の公文職。
  • 能美若狭守:応仁・文明の乱の際、大内政弘の軍勢として麾下の警固衆(水軍)を率いて上洛した。
  • 能美仲次:縫殿允。大永年間の安芸国南部の争乱で大内方として活躍した。
  • 能美秀依
  • 能美景頼:秀依の子。弥三郎。天文十九年(1550)、家督を継いだ。
  • 能美房次(世次):次男に万菊(丸)。後に「世次」と改名するか。
  • 能美万菊丸:世次の子。弘治二年(1556)十月、世次の跡目相続を大内義長から安堵された。
  • 能美右近助:永禄元年(1558)、村上通康より「四郎」の仮名を与えられた。後に村上牛松(通総)より「右近助」の仮名を得た。
  • 能美民部卿丸
  • 能美与三
  • 能美源兵衛
  • 能美左京亮

一門

  • 能美和泉守:大内武治に仕えた。実名は貞久か。
  • 能美貞勝:周防国玖珂郡柳井庄に知行地があったらしい。
  • 能美矩経:周防国玖珂郡柳井庄に知行地があったらしい。
  • 能美十郎三郎:高田十郎三郎とも。能美島高田を本拠とした一族か。
  • 衣田千松丸:能美十郎三郎の弟。
  • 能美肥前守:永正五年(1508)の京都船岡山の戦いで、大内義興方として戦った。
  • 能美与三
  • 能美左近将監
  • 能美弘助:土佐守。大内氏に仕えた。
  • 能美左馬丞:東西条鏡山城の城番。城は大永三年に尼子氏の攻撃で陥落した。
  • 能美弾正忠:大永年間、大内方として水軍を率いて戦った。
  • 能美兵庫助:竹原小早川氏の被官。
  • 能美孫三郎:大永五年(1525)二月、厳島にて大内義興の御座船で火事があった日の船番を担当していた(『房顕覚書』)。
  • 能美備後守:天文二十年(1551)の大寧寺の変の際、香積寺門前で陶家臣:椋木木工助に討ち取られた。
  • 能美掃部助
  • 能美新四郎
  • 能美和泉守
  • 能美賢次:四郎。天文二十二年(1553)三月、陶晴賢より加冠を受けて元服した。
  • 能美加賀守
  • 能美賢俊:縫殿允。天文二十二年(1553)三月、賢俊の「割分地」が没収され、房次の次男万菊丸に譲与されている。
  • 能美左馬允
  • 能美重友:大内家臣。後に毛利氏に仕えた。
  • 能美宣通:毛利家臣。宣通の家系は、彼が毛利元就に初めて出仕したという。
  • 能美宣仍:宣通の子。毛利家臣。

家臣団

  • 渋屋:能美仲次の被官。
  • 渋屋小十郎:能美四郎の被官。天文十五年(1546)八月の伊予国中途島での合戦で負傷した。

居館・城郭

  • 能美城
  • 北堀城
  • 堀越城
  • 堀城
  • 鬼崎城