能美 重友

のうみ しげとも

 大内家臣。主家滅亡後は毛利氏に仕える。又三郎、式部丞、佐渡守。

 弘治二年(1556)三月、大内義長より「式部丞」の仮名を与えられる。当時の大内氏は天文二十四年(1555)の厳島合戦敗北以後、毛利方の侵攻を受けていた。三月二十五日の長門国阿武郡木部郷(現在の萩市大字吉部)における合戦では、能美土佐守とともに大内方として奮戦し、左肩に矢傷を負った。

 大内氏滅亡後は、毛利氏に出仕。弘治三年(1557)八月、これまで支給されていた九貫文の代所として、長門国美祢郡赤郷三石七斗余、同郡嘉万別府三石、同国大津郡三隅庄一石五斗が毛利氏から与えられている。この代所は永禄三年(1560)十月、毛利隆元から改めて、給地として認められた。

 永禄五年(1562)二月、上記の給地を子の式部丞に譲っており、その旨を毛利輝元が承認している。

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関連人物

  • 能美土佐守:重友とともに阿部郡木部で毛利方と戦った。
  • 能美式部丞:重友の子。

その他の関連項目

参考文献