能美 房次

のうみ ふさつぐ

 16世紀中頃の能美氏の当主。実名の「次」が通字であれば、大永年間の能美仲次の系統か。「房」は大内氏重臣・陶氏からの偏諱とみられる。史料上の初見は天文二十二年(1553)三月二十日付の陶晴賢安堵状。陶晴賢が能美加賀守に対し、縫殿允賢俊の「割分地」没収、および房次の次男万菊丸への譲与について承認している。

防芸引分と能美氏

 天文二十三年(1554)、毛利氏が大内氏と断交して安芸国南部に侵攻。「能美衆」はいったんは毛利方についたものの、人質を見捨てて大内方に復帰した(「白井文書」)。能美島には阿曽沼氏や小早川氏の警固衆が攻め寄せた。その後大内方は翌年十月の厳島合戦で大敗し、陶晴賢も自害する。

大内方に留まる

 弘治二年(1556)十月、大内義長が能美満菊に対して父世次の跡目相続を承認している。満菊は先述の万菊丸と同一人物※1とみられるので、万菊丸の父とされる世次は房次と同一人物と考えられる※2。毛利方による周防侵攻が始まっても房次・万菊丸父子は、大内方に留まっていた。しかし房次はこの時点で死去していたと推定される。

 なお大内義長は跡目相続の内容を、天文十四年(1545)五月の大内義隆の裁許と天文二十二年(1553)二月の證判等によるとしている。両文書の詳細は不明だが、房次の代で得た証文だったと思われる。

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関連人物

  • 能美仲次
  • 能美加賀守
  • 能美賢俊
  • 渋屋小十郎:能美四郎の被官。天文十五年(1546)八月の伊予国中途島での合戦で負傷した。この「能美四郎」は房次の可能性がある。
  • 能美万菊丸:房次の次男。後に家督を継ぐ。
  • 檜垣新太郎:竹原小早川家臣。天文二十三年(1554)、「能美浦」を攻めた際に討死した。
  • 飯田義武:毛利家臣。天文二十三年九月、能美島を攻撃した。
  • 内藤隆世:大内義長の重臣。

その他の関連項目

脚注

  • ※1:同様の内容を伝える小原隆言と内藤隆世両名による大内氏奉行人連署奉書では、宛名を「能美万菊殿」としている。
  • ※2:内藤隆世の偏諱を受けて改名したのかもしれない。

参考文献

  • 「山野井文書」(『広島県史』古代中世資料編4)