能美 仲次

のうみ なかつぐ

 16世紀前半頃の能美氏の当主。縫殿允。

江田島市能美町中町の二宮神社。この地にあった堀城に大永七年、能美仲次が入城したといわれる。
江田島市能美町中町の二宮神社。この地にあった堀城に大永七年、能美仲次が入城したといわれる。

周防山口の「雑説」

 永正六年(1509)、大内義興が上洛中の周防山口で「雑説」(反乱の噂か)がおこった(「山野井文書」)。これを聞いて馳せ参じた能美四郎に対し、十月、大内氏奉行人から連署で感状が発給されている。この四郎が仲次であるとみられる※1。

広島湾沿岸部での戦い

 大永二年(1522)、大内氏の大軍勢が安芸武田氏領に侵攻。能美氏警固衆も三月二十七日に堀越(現在の広島市南区堀越)の在家に放火し、さらに仁保島を夜襲して敵船を拿捕している。武田方白井氏の拠る府中城攻めの作戦行動の一つだったとみられる。しかし大永三年(1523)六月、出雲国の尼子経久が安芸国に侵攻し、大内氏の東西条鏡山城を攻略した。これを契機に安芸国の多くの勢力が尼子方につき、大内氏の勢力は大きく後退した。

 そんな中、仲次らは大内家臣・弘中武長の指揮下で引き続き大内方として戦っていた。九月十七日夜、仲次は警固船を率いて廿日市や能美島、江田島を襲撃し、敵船一艘を拿捕している(「山野井文書」)。能美島や江田島にも尼子方の勢力が及んでいたのだろう。十月三日には厳島に攻め寄せた敵船を、能美氏警固衆や長崎弥八郎らが撃退している(「山野井文書」「譜録 山中八郎兵衛種房」)。

能美兵庫助との争論

 尼子方との戦いが続く大永四(1524)年三月、竹原小早川氏の被官・能美兵庫助との間で所領をめぐり争論となっている。この件については、仲次被官の「しふ屋」(渋屋)が大内家臣・肥留惣右衛門尉景忠に事情を伝えている(「乃美文書」)。

能美島中村を得る

 大永五年(1526)六月、安芸国南部では矢野の野間氏が降伏するなど、形勢は大内方優位に傾いていた。同月、仲次は大内義興から「藝州忩劇」での奔走を認められ、能美島中村(現在の江田島市能美町中町)内で十六石の知行を給付された(「山野井文書」)。

豊後国での海戦

 仲次はその後も大内方警固衆の一翼となった。天文三年(1534)五月、豊後国薄野浦(大分県高田市臼野)における大友氏との合戦で活躍し、負傷している(「山野井文書」)。大内氏はこの年、大友氏の本国である豊後国に侵攻しており、四月には勢場ヶ原の戦いで両者の大軍が激突していた。

 

Photos

堀城(現在の二宮神社)の詰城であったという麓城跡から眺めた能美町中町。

関連人物

  • 陶弘詮:陶弘房の子。弘護の弟。大内義興の上洛中、周防山口にあって留守の首班的役割を担った。
  • 弘中武長
  • 能美房次:仲次の後継者か。厳島合戦後も大内氏に味方した。
  • 能美兵庫助:竹原小早川被官。仲次を訴えた。
  • 渋屋:仲次の被官
  • 能美左近将監:仲次に給付された能美島中町の地の元の知行主。あるいは尼子方について改易されたか。
  • 右田興実:大内家臣。豊後国薄野浦の合戦を指揮した。

その他の関連項目

  • 堀城 :現在の江田島市能美町中町の二宮神社の地にあった城。当時は海に面していた。

参考文献

  • 下向井龍彦「中世の呉」(呉市史編纂委員会編『呉市制100周年記念版 呉の歴史』) 2002
  • 「乃美文書正写」(『広島県史』古代中世資料編Ⅴ)
  • 「山野井文書」(『広島県史』古代中世資料編4)