渋屋

しぶや

 能美仲次の被官。史料には「しふ屋」とあるが、天文十五年(1546)に能美四郎被官の渋屋小十郎(「山野井文書」)がみえるので、渋屋が正しいと思われる。

 安芸国南部で大内氏と尼子氏の両陣営が激しく火花を散らしていた大永四年(1524)三月、能美縫殿允仲次と竹原小早川氏の被官・能美兵庫助の間で争論が起きていた。

 大内家臣・肥留惣右衛門尉景忠が竹原小早川家臣・乃美備前守賢勝に宛てた書状に、能美縫殿允仲次の被官「しふ屋」(渋屋)の言い分が示されている。渋谷によれば、現在仲次が「足よわ」(老人または婦女子の意味)に預けている二百目(0.2貫)の畠について、兵庫助方は自分たちに与えられるべきと異議を唱えていたらしい。景忠は諸事を踏まえて調整すると賢勝に伝えている。

 一方で竹原小早川氏側は大内氏重臣・陶興房にたびたび働きかけを行っていた。興房は小早川弘平と乃美賢勝それぞれにに対して、能美氏の者が異議を申し立ててもしっかり対応するので「帰嶋之条」を早急に進めるよう要請している。「帰嶋之条」の意味は不明だが、尼子方の攻勢で能美島や江田島などの島嶼部での拠点を失った能美氏ら大内方勢力の復帰を指しているのかもしれない。

 

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その他の関連項目

参考文献

  • 「乃美文書正写」(『広島県史』古代中世資料編Ⅴ)