渋屋 小十郎

しぶや こじゅうろう

 能美氏の被官。天文十五年(1546)八月、「能美四郎」に従って大内方警固衆による伊予国中途島攻めに加わり、右股に矢傷を負った。この件は大内氏の指揮官・冷泉隆豊から大内義隆に報告され、翌月十三日に能美四郎は感状を得ている(「山野井文書」)。

 小十郎を従えて中途島を攻撃した能美四郎の実名は不明だが、「山野井文書」にその名がみえる賢次あるいは房次であったと思われる。天文二十二年(1553)三月七日、陶晴賢の加冠により「能美四郎」が元服して「賢次」を名乗る。賢次が元服した同月、陶晴賢から能美房次の次男万菊丸への土地譲与が認められている。「次」が通字であるなら、この房次は賢次の父親にあたる人物かもしれない。であれば、仮名も四郎であったことが推定される。

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関連人物

その他の関連項目

参考文献

  • 「山野井文書」(『広島県史』古代中世資料編4)