檜垣 新太郎
ひがき しんたろう
16世紀前半の竹原小早川家臣。 天文年間に水軍の一員として活躍した。
大崎島での合戦
天文七年(1538)、竹原小早川氏の軍勢が大崎島の大久師(広島県大崎上島町大串)で沼田小早川勢※1と合戦におよんだ。新太郎は竹原小早川方として参戦して負傷し、小早川興景から戦功を賞されている(天文七年五月廿ニ日付「小早川興景感状」)。
新太郎の出自
新太郎はその姓から呉衆(現在の呉市に割拠した水軍衆)を構成した檜垣氏の出身とみられる。呉衆は元々は大内氏直属の水軍だった。しかし、大永四年(1524)六月には安芸佐西郡に展開する乃美賢勝への増援として「桧垣大四郎・神兵衛両人」らが小早川弘平(興景の父)に乗船しての出陣を命じられており、檜垣氏ら呉衆が竹原小早川氏の指揮下に入っていることが分かる。新太郎は両者の関係性の変化を背景に、竹原小早川氏に出仕することになったのかもしれない。
能美島で討死
天文二十三年(1554)五月、毛利氏が大内氏(陶氏)と断交。毛利元就の三男隆景を当主とする小早川氏も同調した。安芸国では新太郎の出身である檜垣氏を含む呉衆や多賀谷氏、能美氏ら海上勢力が大内方に留まったため、小早川家に属す新太郎は一族と敵対することになった。
同年九月十九日、小早川隆景は桧垣槌法師(新太郎の子)に感状を与え、新太郎が能美浦(広島県江田島市)での合戦の際に「無比類」の活躍をしたことを伝えている。ただ、感状には「聊不忘却候 忠義之段到子孫可成其感候」とあり、宛先も子の槌法師であることから、新太郎はこの合戦で討死したと推定される。