山本 賢勝

やまもと かたかつ

 安芸国呉浦を本拠とした小領主連合・呉衆の一つ山本氏の当主。山本房勝の子。天文二十四年(1555)七月五日、大内義長から賢勝に父・房勝の跡目を相続する許可が出されているが、既に天文二十二年三月に賢勝への譲状が大内氏によって裁許されており、この頃には父から家督を譲られていたとみられる。

呉湾。天文二十四年三月、大内水軍は小早川占領下の呉浦を襲撃した。
呉湾。天文二十四年三月、大内水軍は小早川占領下の呉浦を襲撃した。

大内方に立つ

  天文二十三年に毛利氏が大内氏に叛旗を翻した際には「呉惣衆中」を率いて大内氏に味方。本拠の呉を占領されながらも水軍を率いて毛利方と戦った。先述と同じ天文二十四年七月五日、大内義長は賢勝の「乗船」しての馳走を賞して安芸国のどこでも望む領地一ヶ所を与えるを約束している。しかし、義長が陶晴賢に宛てた書状によれば、呉衆はいったんは毛利に差し出した人質を見殺しにして大内方に復帰しており、賢勝の決断は大きな代償の伴うものでもあった。

毛利氏との戦い

  結局、安芸国における賢勝ら大内方は瀬戸宗勝らが率いる毛利方水軍の優勢を崩せず、その後の厳島合戦で陶晴賢とともに大内氏主力が壊滅したことで情勢は絶望的となる。それでも賢勝は大内方として周防・長門になだれ込んでくる毛利方と戦っていた。弘治二年(1556)十月、大内義長は賢勝が所望していた左近将監の官途を朝廷に推選することを約束している。

 その後の賢勝については不明だが、『閥閲録』山本家の項末に「山本四郎賢勝 法躰宗源」とあるので、家督を小早川氏家臣・有田拾次郎に譲って出家したものと思われる。

 

関連人物

その他の関連項目

  • 杉迫城

参考文献

  • 下向井龍彦 「第三章 中世の呉」 (呉市史編纂委員会・編 『呉市制100周年記念版 呉の歴史』 2002)