多賀谷 弘重

たがや ひろしげ

 15世紀後半における海賊衆・倉橋多賀谷氏の当主。筑前守。文明十二年(1480)六月二日の紀年をもつ桂浜神社の棟札にその名がみえる。

文明十二年に再興された柿葺の桂浜神社本殿。
文明十二年に再興された柿葺の桂浜神社本殿。

応仁・文明の乱

  文明六年(1474)頃とみられる二月、応仁・文明の乱で在京中の守護大名・大内政弘から安芸国東西条代官・安富弘範に対し、増援軍を率いての上洛が命じられている。この時、指示の詳細を伝える使者として「多賀谷筑前守」の名がみえる。「筑前守」の官途は倉橋多賀谷氏滅亡時の多賀谷興基も名乗っていることから、安富弘範への使者「筑前守」は当時の当主・弘重であると推定される。

 これより以前、応仁元年(1467)七月、海路上洛する大内軍の「海賊衆先陣」を「ノウヘ クラハシ クレ ケコヤ」がつとめており(『経覚私要抄』)、弘重率いる倉橋多賀谷氏の水軍が大内方水軍の重要な位置を占めていたことがうかがえる。応仁・文明の乱中、弘重は水軍として活動する一方で、先述のように海上機動を生かして本国との連絡役も担っていたと思われる。

 応仁・文明の乱後の文明十年(1478)十月、豊前花尾城を攻撃する大内勢の中に「呉・蒲刈・能美三ヶ島衆」がおり、同月、河野通春への援軍として伊予への渡海が命じられている。弘重も蒲刈同族とともに従軍していた可能性は高い。

桂浜神社の再興

 そして、これらの戦争を終えて弘重が倉橋に帰還したと思われる文明十二年(1480)六月、「当領主平朝臣弘重/貞光」の「寿命長遠」と「万民百姓無為」を祈願して、桂浜神社(八幡宮)の再興がなされる。

関連人物

  • 多賀谷貞光:弘重の子。
  • 多賀谷実時:桂浜神社(八幡宮)再興の際に檀那となる。

その他の関連項目

参考文献

  • 「中世の倉橋島」(『倉橋町史 通史編』 2001)