丸子山城

まるこやま じょう

 倉橋島の本浦の北側、標高50.6mの尾根の南端を掘りきって築かれた海城。室町・戦国期、倉橋島を支配した海賊衆・倉橋多賀谷氏の拠城。築城年代は不明だが、多賀谷氏が伊予国から北上してきた南北朝期頃とみられている。

倉橋本浦の白華寺付近から眺めた丸子山城の跡。丸子山城は湾に向かって突き出た尾根の南端に築かれている。
倉橋本浦の白華寺付近から眺めた丸子山城の跡。丸子山城は湾に向かって突き出た尾根の南端に築かれている。

 「益田宗兼代々軍忠条々」によれば、石見益田の国人領主・益田宗兼の祖父・兼堯が芸州矢野・倉橋への出兵に出陣して手柄をたてたという。史料の内容から文安四年(1447)頃、大内氏が安芸国で武田氏と戦った際のことと推定される。大内氏と敵対する武田氏が、周防と安芸東西条の連絡分断を目的に南下侵攻し、矢野野間氏の保木城、倉橋多賀谷氏の丸子山城を攻撃したものと思われる。

 天文二十四年(1555)、丸子山城は城主・倉橋多賀谷氏の滅亡の舞台となる。信憑性の高い史料ではないが、18世紀編纂の『芸州倉橋浦風土記』が古老の話として倉橋多賀谷氏の滅亡と丸子山城での合戦の様子を伝えている。

 攻め込んできた毛利元就の軍勢に対し、城方は北の峠山、南の宮の浜の二手に分かれて討って出て防戦したが、支えきれずに城内に退いた。毛利軍はすぐに攻め込んで城を包囲し、暗夜を衝いて城の東西の岸から攻め上がり、城に火を懸けたので城内は混乱に陥った。当主・多賀谷興頼の長子・興基は城を出て戦闘中に隊もろとも全滅。興頼も城内で自害し、その他多賀谷氏累代の家臣たちも戦死あるいは自害して果て、倉橋多賀谷氏は滅亡した。

広島県呉市倉橋町本浦

 

Photos

丸子山城跡から眺めた倉橋本浦。丸子山城からは城下・港湾が一望できる。

関連人物

その他の関連項目

参考文献

  • 『日本城郭体系13 広島・岡山』 新人物往来社 1980
  • 「中世の倉橋島」(『倉橋町史 通史編』 2001)