矢野
やの
広島湾に注ぐ矢野川の河口部に形成された港町。室町・戦国期には安芸の有力国人である野間氏の城下町としても栄えた。
「矢野浦」の登場
「矢野」の地名は鎌倉期から見える。仁治三年(1242)三月の「安芸国安摩荘内依田島荘官百姓解」に「矢野浦」惣公文中原惟道が波多見浦惣公文とともに署判を加えている(「巻子本厳島文書」)。この史料は安芸国安摩荘内の依田島(江田島)の荘官や百姓らが厳島社政所に対してある殺人事件の裁定を申請したものであり、矢野浦の荘官はこの事件に関し、江田島や波多見浦(倉橋島北部)と連携して厳島社に裁定を迫っている。
延応元年(1239)十月の「安摩荘厳島社日御供米送文」では、矢野浦の日御供米を梶取清昌が運上している(「厳島野坂文書」)。梶取は水運業者であったとみられる。
野間氏の本拠地
室町期、矢野は保木(発喜)城を居城とする国人・野間氏の城下町となる。野間氏は水軍を擁して矢野から波多見島(倉橋島北部)にかけてを支配した国人。この野間氏のもとで矢野は発展したとみらる。文明二年(1470)には矢野八幡宮(尾崎八幡宮)が尾張内海から勧請されたと伝えられており、野間氏の菩提寺となる真光寺や応護寺も建立されている。
弘治二年(1556)の史料には矢野村に「番匠屋敷」、「かち屋かいち」という田地があったことがみえ(「長府毛利文書」)、城下には職人たちも集まっていたことがうかがえる。また矢野八幡宮の門前では市が開かれていたという。
文化的な面では、永正十三年(1516)夏、「芸州野間掃部頭山城」では九州下向途中の連歌師・宗碩を迎えての連歌会が行われている(『月村抜句』)。「野間掃部頭」は当時の当主である野間興勝とみられる。
野間氏以後
天文二十四年(1555)に野間氏が毛利氏に滅ぼされて後は、毛利氏家臣の粟屋就信らの支配を受ける。その後の寛永年間には既に街衢が形成されていたことが確認できる。江戸期を通じて街衢は拡大し、職人や商人らが活発に活動する町となった。
Photos
神社・寺院
- 矢野八幡宮(尾崎八幡宮):文明二年に野間興勝が勧請したと伝えられる。
- 姫宮神社: 『楽音寺古神名帳』にみえる「安南郡四位矢野姫明神」に比定されている。
- 多加宮:『楽音寺古神名帳』にみえる安南郡の「雄高明神」ともいわれる。
- 真光寺:野間氏の菩提寺。
- 応護寺:野間氏の祈祷寺。多加宮の別当だったという。
人物
- 野間興勝:15世紀末から16世紀初めの野間氏当主。矢野八幡宮などを勧請。
- 野間隆実:野間氏最後の当主。
- 西実世:野間家臣。隆実の加冠で元服した。
- 新屋実満:毛利家臣。野間旧臣の可能性がある。
- 末永弥六左衛門:吉川家臣。野間旧臣の可能性がある。
- 末国光氏:毛利家臣。天文二十四年四月の矢野城攻めで戦功があった。
商品
城郭
- 矢野城
その他の関連項目
参考文献
- 「矢野城」(『日本城郭体系13 広島・岡山』) 新人物往来社 1980