末永 弥六左衛門

すえなが やろくさえもん

 毛利・吉川家臣。子に彦九郎。元は野間家臣だったともいわれる。

現在の呉市吉浦の眺望。弥六左衛門は、この地に所領と屋敷を与えられた。
現在の呉市吉浦の眺望。弥六左衛門は、この地に所領と屋敷を与えられた。

野間旧臣とともに山里要害へ

 天文二十四年(1555)八月二十二日、弥六左衛門は毛利元就・隆元父子から「山里要害※1城番」を命じられた(「藩中諸家古文書纂」)。指示書の中で元就・隆元は、恩賞の給地は子孫も知行できると約束している。死の危険がともなう任務であったことをうかがわせる。同様の指示は、西実世新屋実満、蔵田彦五郎にも出されている(「閥閲録巻169」「閥閲録巻85」「蔵田文書」)。西はこの年の四月に滅びた野間氏の旧臣であり、新屋もその可能性があるとされる。

山里の防衛戦

 天文二十四年八月の「山里」地域は、大内氏(陶氏)とこれに反旗を翻した毛利氏の勢力が対峙する極度の緊張状態にあった。弥六左衛門らが城番となった「山里要害」は、たびたび陶方の攻撃を受けたらしい(「井原家文書」)。厳島合戦で陶晴賢が敗死した後の十月四日、山里から陶軍が撤退したことで、漸く終戦となった(「波多野家文書」)。弥六左衛門は生き残った。ともに城番だった新屋新三郎は、弘治二年(1556)十月に毛利隆元から山里で給地を与えられているので(「閥閲録巻85」)、恩賞もあったのだろう。

吉川氏に仕える

 弥六左衛門は、その後吉川元春に仕えた。天正五年(1577)六月、元春から吉浦(現在の広島県呉市吉浦)で田二町六十歩、畠五段、屋敷八ヶ所を与えられている。吉浦は吉浦野間氏の旧領であり、大永年間には吉浦野間刑部大輔が水軍を率いて活動している。弥六左衛門は、吉浦にあって吉川氏の水軍を率いたのかもしれない。なお近世の吉川氏には、野間家臣を出自とする芦浦氏や阿賀氏、呉氏などの水夫がいた。

 弥六左衛門の没年は不明だが、死去の報に接した吉川元春が「用ニ立者」と言ってるので、討死したのかもしれない。また残された子、彦九郎に対しては、憐愍をもって召使う旨、家臣・山縣越前守に伝えさせている(「藩中諸家古文書纂」)。

Photos

山里要害の遠景。

関連人物

  • 末長彦九郎:弥六左衛門の子。
  • 西実世:野間旧臣。弥六左衛門とともに山里要害の城番となった。
  • 新屋実満:野間旧臣か。弥六左衛門とともに山里要害の城番となった。
  • 蔵田彦五郎:毛利家臣。弥六左衛門とともに山里要害の城番となった。
  • 吉川元春:吉川氏当主。毛利元就の次男。

その他の関連項目

  • 山里要害(中山城)

脚注

  • ※1:安芸国西部の山間地域を指す戦国期の呼称。旧佐伯町、湯来町に相当する。「山里要害」は廿日市市河原津の中山城跡がその遺構といわれる。

参考文献

  • 秋山伸隆・表邦男 「厳島合戦前夜の山里合戦と「山里要害」」 (『廿日市の文化』第24集) 廿日市市郷土文化研究会 2011
  • 呉市史編纂室 編 『呉市史 第一巻』 1956
  • 広島県 編 『広島県史 古代中世資料編Ⅴ』 1980