野間 刑部大輔
のま ぎょうぶだいゆう
戦国期の安芸国矢野の国人領主・野間氏の一族。吉浦(現在の呉市吉浦) を基地とする同氏水軍を率いた。
五日市で討死
大永三年(1523)、厳島神主を自称した友田興藤が出雲尼子氏、安芸武田氏に呼応して大内氏に反旗を翻す。これに対して大内氏は八月に厳島を制圧。その後、同島を拠点に麾下の水軍で厳島神領・五日市へ攻撃をかけるが、興藤方の反撃で大損害を喫して撃退されてしまう。この時、「吉浦野間刑部大輔」が能美弾正忠、野村民部丞らとともに戦死したことが、当時厳島神社の社家であった棚守房顕の『覚書』にみえる。
吉浦野間氏
吉浦における野間氏については、同じ大永三年(1523)八月、平賀氏が尼子氏に提出した「安芸東西條所々知行注文」に「した見村 百貫 野間吉浦彦太良(郎)知行」「上戸村 百貫 同吉浦知行」がみえる。この西条の下見村などに所領を持つ野間吉浦彦太郎と野間刑部大輔との関係は不明だが、近親者と考えられる。
大永三年の状況
吉浦は野間氏滅亡後に吉川元春の所領となって野間氏旧臣を中心とする水軍の基地となった場所であり、討死した野間刑部大輔もまた麾下の水軍を率いて戦っていたと思われる。しかし、野間氏自身は大永三年八月の段階で大内方の呉衆の所領を制圧して警固屋まで進出し、同じく大内方の竹原小早川氏と音戸の瀬戸を挟んで対峙している。このため野間刑部大輔がどういう立場で大内方として戦っていたかについては不明である。