安芸武田氏
あき たけだ し
源義光(新羅三郎義光)を祖とする甲斐源氏武田氏が安芸守護職を得るのは鎌倉初期。文治五年(1189)、武田信光が安芸の武士を率いて奥州合戦に参戦している(『吾妻鏡』)。 武田氏の安芸守護職は、一時的に外れることもあったが、断続的に南北朝期の頃まで維持された。この間、荘園や国衙の押領を進めるなど、安芸での支配を確立していった。
安芸分郡守護
応安四年(1341)頃、安芸守護職が今川了俊に移り、以後、武田氏が安芸一国の守護職を得ることはなかった。一方で幕府も安芸における武田氏の勢力を無視できず、14世紀後半には佐東・安南の二郡、15世紀はじめには山県郡を分郡守護権を武田氏に与えている。
永享十二年(1440)、武田信栄は若狭の一国守護職を獲得。これを機に武田氏は本国を若狭に移し、惣領家・若狭武田氏が、代官を通じて安芸分郡を支配する体制となった。
大内氏との戦い
安芸における武田氏の分郡支配は、強大な勢力を持つ周防の大内氏との対決により、徐々に不安定なものとなった。16世紀になると、代官・武田元繁は惣領家から自立。一時は大内氏に組みしたが、結局敵対に転じた。元繁敗死後は、劣勢著しくなり、天文十年(1541)、本拠である佐東金山城が陥落して滅亡した。
武田水軍
武田氏の水軍としては、白井氏と川内衆が挙げられる。 白井氏は広島湾頭の府中を本拠とし、仁保島を拠点とした分家(仁保白井氏)とともに大内方水軍と攻防を繰りひろげた(別項)。 川内衆は太田川下流域の中州を形成していた川内地区(広島市安佐南区川内・中筋・東野・東原一帯)に本拠を持つ土豪層。武田一族の福井氏をはじめ、山県、福島、飯田、熊野らの武士の他、仏護寺や牛田東林寺を始めとする真宗勢力も含んでいた。
両水軍とも、武田氏滅亡後も、大内氏、そして毛利氏の水軍として大いに実力を発揮している。