戸坂 信成
へさか のぶなり
安芸武田氏家臣。播磨守。 己斐城主。武田氏の譜代で戸坂城を居城とする戸坂氏の出身か。長禄元年(1457)に己斐城に拠って大内軍と戦った。
己斐城の戦いで討死
長録元年三月、安芸武田氏と境界紛争を起していた厳島社家・佐伯親春の要請を受け、周防大内氏の軍勢が安芸武田領に侵攻した。二十一日、武田方の釈迦岳城を抜いた大内軍は二手に分かれ、一手が武田氏本拠の佐東金山城に、もう一手が戸坂信成が守る己斐城に押し寄せた。
己斐城を攻撃した大内軍の中に当時二十四歳の右田弘篤がいた。「閥閲録」に収録された右田氏の後裔、宇野氏の史料によると、「大内家無双之大力」であった弘篤は、己斐城攻めの際に「近国ニ隠レ無キ大力」であった己斐城主・戸坂信成を組み合いの末に討ち取った。しかし弘篤もまた駆けつけた信成の郎党らの手に掛り討死したという。
武田国信の悲嘆
五月十四日、当時京都にいた武田国信(安芸分郡守護・武田信賢の弟)は、安芸国人・毛利煕元からの書状で信成の討死を知った。国信は返書の中で信成の討死について「言語道断」のこととし、信成を己斐城に配したことは「短慮」であり、「不便」なことをしたとその死を悼んでいる。なお己斐城は、この時点ではまだ落城には至っていないが(『毛利家文書』97)、その後は不明。