内藤 弥四郎

ないとう やしろう

 安芸武田氏の家臣。天文十年(1541)五月、金山城落城の際に討ち死にした。

武田氏の譜代家臣

 内藤氏は、少なくとも鎌倉期から武田氏郎党としての活動が史料上で確認できる譜代家臣。その後も武田信時が安芸守護を務めていた鎌倉後期に、守護代・在国司代・松崎八幡下司代の地位にあった内藤左衛門入道盛仏の名が知られる。

武田氏滅亡前夜

 天文十年(1541)正月、安芸に遠征していた出雲の尼子軍が敗走。武田氏当主・信実も居城の金山城から逃亡した。しかしその後も伴、香川、品川、武藤、内藤、逸見ら武田家臣は金山城に籠城して大内氏の軍勢に抵抗していた(『棚守房顕覚書』)。

金山城落城時の惨劇

 『棚守房顕覚書』の金山城落城の記事には「佐東金山和談ナサレ、内藤、斉藤(武藤か)ノ者共、士ヤクラマテ追ヒ下シ、五月十二日討チ果ス」とある。また『二宮俊実覚書』は、和談後に「武田之家中八人衆」が「とも(伴)陣」という丸で悉く討ち果たされたとしている。金山城の城兵が和談に応じた後に、金山城西麓の伴城で内藤氏を含む武田家人が討たれたことがうかがえる。

 さらに金山城攻めに参加した羽仁隆重の軍注状には、十二日夜に「芸州佐東郡金山伴陣」で武田家人等を誅伐した際の戦功が記されており、そこに「頸一内藤弥四郎 市川孫四郎之ヲ討捕ル」とある。内藤弥四郎が伴城で羽仁隆重の家臣・市川孫四郎に討たれたことが分かるが、徹底抗戦の末の戦死か、和談とみせかけた謀殺かは判然としない。内藤氏では他にも内藤小三郎、内藤右衛門大夫が討たれたことが史料上確認できる。

忠臣、内藤弥四郎繁勝

 江戸初期に編纂された軍記物『陰徳太平記』にも内藤弥四郎繁勝の名がみえる。同著によれば、弥四郎繁勝は降伏に傾く城内にあって徹底抗戦を主張。五月七日、いよいよ金山城が降伏する際、城の客殿に武田元繁同光和の画像を掛け、その前で切腹して果てたという。
 前述の羽仁隆重の軍注状と異なる最期は、軍記物としての潤色かもしれないが、主家滅亡に殉じたことからも、武田氏と内藤氏の関係の深さをうかがうことができる。

 

関連人物

その他の関連項目

  • 佐東金山城

参考文献

  • 河村昭一 『安芸武田氏(中世武士選書)』 戎光祥出版 2010