友田 興藤
ともだ おきふじ
16世紀前半の厳島神主。上野介。神領衆(厳島神主家被官)を率いて大内氏と戦った。藤原教親の甥で、前神主・藤原興親の従兄弟にあたる。
上洛と神主興親の死去
永正五年(1508)十二月、大内義興とともに上洛した興親が京都で病没する。興藤はこの時、小方加賀守とともに京都にいた。興親後の神主職を巡り、興藤と加賀守が競合したらしく、これにより国元では神領衆が分裂しての抗争が勃発する。
上洛中の文芸活動
永正十五年(1518)三月、大内義興に従って有馬で湯治した後、堺に滞在していた興藤は、大内氏重臣・陶興房とともに京都で連歌会を興行している。参加者は当時の著名な連歌師である牡丹花肖柏や宗碩、宗牧、周桂ら。興藤の大内氏との関係の近さと、興藤自身の文化的な側面をうかがうことができる。
大内氏と敵対
永正十五年(1518)、興藤は義興とともに帰国したとみられる。この時、大内氏に神主職の裁定を愁訴するが、同氏は桜尾城や己斐城に城番を送り込んで神領(厳島神社領)を接収してしまう。
これに反発した興藤は大永三年(1523)四月、武田光和と結んで接収された城を奪取。桜尾城に入城して神主を自称した。これを機に出雲の尼子経久が安芸に南下。経久は尼子方に寝返った毛利氏らとともに、大内氏の安芸における拠点・東西条鏡山城を陥落させるなど、大内方諸城を攻略した。
翌大永四年五月、陶興房が大野要害を攻撃し、大内方の反撃が始まった。興藤は武田光和とともに後詰のために大野女瀧に出陣したが、要害の守将・大野弾正少弼が興房に寝返ったため敗北し、追撃を受けて七、八十人が討死した。
第一次桜尾城の戦い
勢いに乗る大内軍は、当主の大内義興、義隆父子も出陣し、豊前、筑前、周防、長門、安芸、石見の全領国から動員された軍勢をもって桜尾城を包囲。七月二十四日には城のニ重まで陶氏の軍勢が侵入して合戦となるなど、激しい戦闘が繰り広げられたが、興藤ら城方の士気は高く、大内軍は攻めあぐねた。結局、安芸攻略を優先する大内氏は石見国人・吉見頼興に和談工作を依頼。興藤の神主引退を条件に桜尾城は開城した。
神主職を退いた興藤であったが、実際は和談後も神主の実権を掌握していた。大永五年(1525)四月、糸賀宣棟に廿日市の「浮口」徴収を命じていたり、享禄三年(1530)には厳島外宮宝殿の再興を下知していることが確認できる。
第二次桜尾城の戦い
天文十年(1541)正月十二日、興藤は、厳島神主となっていた弟(または子)の広就とともに再び大内氏に対して蜂起。海賊衆の村上三家を呼び寄せて厳島を占領するとともに桜尾城に篭城する。しかし十五日には大内水軍を率いる黒川隆尚が厳島を奪回。同じ頃、安芸吉田の郡山城を攻めていた尼子軍も大内・毛利連合軍に敗れてしまう。
三月、大内義隆が岩国から大野門山城に出陣し、大内軍が桜尾城周辺に展開した。これに対し、九日と十九日には桑原与四郎らが藤掛麓の大内軍を切り崩し、興藤や広就が感状与えている。『棚守房顕覚書』によれば、特に十九日は大内軍で多く死者が出て、弘中隆兼の軍勢が駆けつけなければ危うく部隊が全滅するところであったという。
それでも圧倒的な劣勢を覆すことはできなかった。四月五日夜半、羽仁、野坂、熊野ら神領衆が城を退去。興藤は一人城に残り、火をかけて切腹した。