藤原 興親
ふじわら おきちか
15世紀末から16世紀初頭に在任した厳島神主。藤原教親の子で、前神主・藤原宗親の弟。明応二年(1493)頃までは在任していた兄・宗親が、父の教親の実家である毛利氏庶家の長屋氏を継いだため、その跡を受けて神主に就任した。
大内義興からの編諱
興親の「興」は大内義「興」の編諱を受けてのものとみられる。教親など以前の厳島神主が足利将軍からの編諱を与えられていたことと比較すると、神主家の大内氏への従属度合いが強まっていることがうかがえる。
京都で病没
永正五年(1508)二月、興親は足利義稙、大内義興に供奉し、厳島から乗船して海路で上洛する。この間の七月五日、長安久を厳島社大御前棚守職に、七月八日に野坂才菊を舞師にそれぞれ補任する文書が興親の袖判で発給されていることが確認される。しかし興親はこの出征先で病を患い、同年十二月八日、京都において病死する。
神領衆内訌の勃発
興親は一族で神領衆の友田興藤と小方加賀守を伴って上洛していたとみられるが、後嗣のいなかった興親の死後、この両名が神主職の後任をめぐって対立する。さらに、国元では、この後継争いが飛び火してか神領衆が東方と西方に分裂し、以後、神領(厳島社領)は武田氏ら外部勢力も巻き込んでの戦争状態へと突入する。