新里 若狭守
にいざと わかさのかみ
16世紀初頭、安芸国佐西郡坪井を本拠とした有力な神領衆。後に大内氏のもとで佐西郡の支配に関わった新里若狭守隆溢の父とみられる。
神領衆の内部抗争勃発
永正五年(1508)十二月、上洛中の厳島神主・藤原興親が京都で病没したことに端を発し、神領衆が東西両党に分かれての分裂抗争が勃発する。『棚守房顕覚書』によれば、桜尾城に立て篭もった宍戸治部少輔ら東方に対し、新里若狭守ら西方は藤懸城に篭り、その後数年にわたって合戦を繰り返した。
厳島の「役人」
永正十三年(1516)三月、西方の羽仁美濃守が厳島を奪回。美濃守は「当島先役人新里」に厳島を去り渡しており(『棚守房顕覚書』)、若狭守が以前は厳島で「役人」の地位にあったことが分かる。
西方は同島花谷山に勝山城を築き、翌年正月十四日から十五日にかけての東方の小方衆による渡海攻撃を撃退した。これら築城や合戦について若狭守も指揮していたと思われる。
その後、天文十七年(1548)頃から厳島社家に山里納銭を堪渡する「新里若狭守」がみえるようになるが、これは子の隆溢であるとみられる。