藤原 教親
ふじわら のりちか
15世紀後半頃に在任した厳島神主。掃部頭、下野守。宗親、興親の父で、友田興藤の叔父。安芸国人・毛利氏の庶家・長屋氏の出身で、前神主・親藤の養子として神主職を継承した。
将軍による社領安堵
文安元年(1444)七月、厳島社領を安堵する将軍家御教書が「神主又四郎教親」の申請で発給されており、教親の神主在任が確認できる。また『海東諸国記』によれば、応仁二年(1468)に「厳島太守藤原朝臣公家」が朝鮮に遣使しており、年代的にみて、教親の派遣によるものと考えられる※1。
国人衆による社領押領への抵抗
教親の時代の社領運営は厳しいものだった。彼が幕府に訴えるためにまとめた社領押領リストによれば、宝徳二年(1450)四月の段階で、堀立や己斐などの佐東郡をはじめ、高田原や造果保など遠隔社領が武田氏や毛利氏、宍戸氏ら安芸国人の押領を受けていた。
これに対して教親は幕府や大内教弘の支援で社領回復につとめた。康生三年(1457)二月から三月には大内教弘とともに、侵攻する武田氏を迎撃し、毛利氏、吉川氏らとも佐西郡、佐東郡で合戦している。
応仁・文明の乱
応仁・文明の乱では、西軍方に属していたとみられ、東軍方の将軍・足利義政により、山県郡の厳島社領が没収されている。
さらに文明三年(1472)五月、厳島社大御前棚守職にあった長家久が謀反人として討たれ、教親が後任を補任している。十二月、大内氏重臣・陶弘護が神領(佐西郡)に「計略儀」のため家臣を派遣しようとしおり、厳島社の膝下である佐西郡で有力社家が関わった大きな混乱があったことが窺える。
教親はその後も幕府工作による社領回復につとめ、長享元年(1487)には足利義尚から造果保の押領排除を許可されている。