能美 弾正忠
のうみ だんじょうのちゅう
能美水軍の将。大永年間、大内方警固衆の一翼となり安芸武田氏らと 戦った。
武田方警固衆との戦い
大永二年(1522)三月、大内氏の大軍勢が安芸武田氏領への侵攻を開始した。能美氏警固衆(水軍)も大内家臣・弘中武長に率いられて参戦。同月、蒲刈の警固衆である多賀谷武重らと仁保島や堀越(現在の広島市南区堀越)を襲撃している。四月六日、上八屋(現在の広島市西区打越町付近)での戦いで能美弾正忠は右足に矢傷を負い、大内義興の感状を得た(『閥閲録』巻70)。多賀谷武重も十日後の十六日に上八屋を攻め、左股を負傷した(『閥閲録』巻149)。
五日市の戦い
大永三年(1523)四月、安芸国佐西郡で友田興藤が大内氏に対して蜂起し、廿日市桜尾城を奪い厳島神主を自称した。これに対し八月、弘中武長の警固衆が厳島を占領。その後厳島から五日市に警固衆を出撃させた。しかし「船へノリバ(乗り場)」で激しい戦闘となり、この時、能美弾正忠は討ち死にした。他にも野間刑部大輔や野村民部丞ら主だった者が二十人ほど討死し、大内方は退却した(『房顕覚書』)。