多賀谷 武重

たがや たけしげ

 16世紀前半頃の海賊衆・蒲刈多賀谷氏の部将。宮内少輔。後に当主となるか。大内氏のもとで水軍を率いて各地を転戦し、大内氏滅亡後は毛利氏に仕えた。

大内氏の部将

  武重は若い頃から大内氏のもとで戦っていた。明応八年(1499)八月、大内義興に従って豊前小倉津の合戦で負傷し、「十五已前幼年之高名」として義興から感状を得ている。

義興上洛に従軍

 永正四年(1507)、大内義興が足利義伊を奉じて上洛を開始すると、武重もこれに従った。永正八年七月、敵方の攻撃を受けた堺南庄(大内氏の拠点)の防衛にあたり、八月に義興らが京都から丹波に撤退した際にも堺に残り引き続き守備を担当した。その後、大内方は反撃に転じて京都へ攻め込み船岡山合戦で勝利。義興は翌月の九月二十三日付けの感状で、武重の堺防衛の働きを「感悦重畳」と激賞している。

 武重は堺において水軍を率いて味方の収容などを行っていたとみられる。また、義興と敵対する細川澄元に属する三好氏ら阿波国の勢力は船岡山合戦に参戦していなかったともされる。背景には堺における武重ら大内方水軍の脅威があったとも考えられている。

尼子方との戦い

  安芸への帰国後は、尼子氏と結ぶ武田氏ら反大内方と水軍を率いて戦うことになる。大永二年(1522)三月に武田方警固衆・白井氏の拠点・仁保嶋での海戦、翌月の佐東上八屋への攻撃において主力となり、僕従ともども矢傷を負う。さらに大永五年六月、武重は尼子方の国人・野間彦四郎の降伏をまとめたことで義興から感状を得た。野間氏は蒲刈多賀谷氏と同じく伊予から安芸に移ってきた勢力であり、両者が何らかの関係を有していたことがうかがえる。

毛利氏に属す

 天文二十四年(1555)の厳島合戦前後にける武重の動向は不明。ただ大内氏が滅び去った後の弘治三年(1557)八月、毛利隆元から長門国美祢郡の二箇所の知行地の安堵を認められている。

関連人物

  • 多賀谷春貞:武重の子。毛利氏に仕える。
  • 能美弾正忠:武重とともに武田方拠点である佐東上八屋を攻撃した。

その他の関連項目

  • 丸屋城蒲刈における多賀谷氏の本城。ただし、武重の代でも機能していたかは不明。

参考文献

  • 「古代・中世の蒲刈」(『蒲刈町史・通史編』 2000)
  • 『萩藩閥閲録』第四巻 巻149「多賀谷久兵衛」
  • 藤井崇 『大内義興 西国の「覇者」の誕生』 戎光祥出版 2014