丸屋城(蒲刈城)
まるや じょう
古くから瀬戸内海交通の要衝であった下蒲刈島・三ノ瀬の北側の天神鼻という岬に築かれた海城。南北朝期、下蒲刈島に進出した蒲刈多賀谷氏によって築かれたのが始まりとみられ、近世編纂の『芸藩通志』にも「多賀谷式部景茂、始めて城く」と記されている。
蒲刈多賀谷氏の水軍基地
蒲刈多賀谷氏は、同族の倉橋多賀谷氏や呉衆、能美氏らとともに「三ヶ島衆」と呼ばれ、芸南における大内水軍を構成していた。丸屋城は航路の要衝を押さえる機能とともに、同氏の水軍基地を担っていたと思われる。
尼子氏に降伏
大永三年(1523)六月、出雲の尼子経久は安芸に侵攻し、安芸国人たちを糾合して同国における大内氏の重要拠点・東西条鏡山城を攻略する。尼子勢はさらに黒瀬川沿いを南下して蒲刈城(丸屋城)を攻撃。蒲刈多賀谷氏も降伏したとみられる。多賀谷氏の「譜録」は、多賀谷興景について、蒲刈城で尼子氏と戦って戦死したとし、父の景時については「尼子家に属し、後大内氏家に属す」としている。
蒲刈多賀谷氏の衰退
その後、城主であった多賀谷氏の勢力は衰退し、天文年間には竹原小早川氏の勢力が蒲刈に及んでいる。主家・大内氏の衰退が決定的となった厳島合戦の後、多賀谷武重は毛利氏から所領を安堵されている。以後、蒲刈多賀谷氏は毛利氏の警固衆として活動するが、多賀谷元重が朝鮮出兵後、仕えていた毛利秀元から長門の知行地を得て長府に移る。
『芸藩通志』も、丸屋城最後の城主を元重としており、元重の長府移住にあわせて丸屋城も廃城になったとみられる。