野間 興勝
のま おきかつ
16世紀初頭頃の安芸矢野の国人領主・野間氏の当主。 掃部頭。
明応二年(1493)十一月、乃美家氏らに率いられた竹原小早川氏の軍勢が野間氏の瀬戸城を攻略し、波多見島(倉橋島北部)を制圧する。この行動について大内氏からは野間刑部少輔は「一味」なので以後は協調するよう竹原小早川氏に注文が出されている。この刑部少輔が興勝、または先代(弘宣?)であると思われる。結局、波多見島については大内義興の調停により、野間と竹原小早川で同島を中分し、竹原小早川が瀬戸城から退去することで決着した。
永正九年(1512)三月、安芸国人衆は「上意」や大名からの要請に対し、結束してあたることや、他衆との戦争の際の合力などを定めた一揆契約を締結し、国人連合を形成する。そのメンバーとして毛利興元や小早川弘平、阿曽沼弘秀らとともに「野間掃部頭興勝」も連署している。興勝の時代、野間氏は安芸国を代表する有力国人となっているのである。
一方で興勝はこれに前後して、平賀氏や阿曽沼氏といった一揆にも連署した近隣国人とも争っており、大内氏の調停を受けて和睦している(「平賀家文書」)。また広島県呉市苗代町の掃部城跡は「野間掃部」の城と伝えられており、興勝が矢野の東方にも勢力を拡大して境目に城を築いていたことがうかがえる。
興勝は文芸との関わりも深かったのかもしれない。永正十三年夏、「芸州野間掃部頭山城」では九州下向途中の連歌師・宗碩を迎えての連歌会が行われている(『月村抜句』)。