村上 義益
むらかみ よします
天文年間の能島村上氏の当主。宮内少輔。従弟の武吉を擁立しようとする叔父の義忠や隆重らと争った。
一族との対立
近世編纂の「譜録(村上図書)」によれば、父・義雅の早世後、家督を継いだ。しかし義益は病弱で「主将之器」ではないとして叔父・隆重らが武吉を擁立した。これに対し譜代家臣の村上義季らは義益を支持し、義益と武吉の家督継承をめぐる争いが勃発したとされる。
大内氏と敵対
天文十年(1541)正月、大内氏と敵対する厳島神主・友田興藤を「興家三家」(能島、来島、因島)の水軍が支援している(『棚守房顕覚書』)。この時期、大内方の竹原小早川弘平も瀬戸の乃美賢勝に対して能島衆への警戒を命じており、能島村上氏が大内氏と敵対していたことがうかがえる。また大内氏も小原隆名や白井房胤らを能島や因島、甘崎などに派遣して村上諸家の拠点に攻撃を行っている。
能島を離れる
その後の天文十六年(1547)頃、友田興藤、広就にかわって大内氏の意向で厳島神主となった杉(藤原)景教が能島に「発足」している。既に能島村上氏の本拠が大内方となっていることが分かる。
義益ら反大内派は中途島に拠点を移したとみられ、天文十五年から翌年にかけて冷泉隆豊に率いられた白井房胤や能美四郎、光井兼種ら大内方水軍が中途島への攻撃を繰り返している。一方で隆豊は村上右衛門大夫(来島村上氏?)に対して「中途衆」の周防国沿岸部での賊船行為を停止させるよう働きかけており、義益ら能島村上氏反大内派が反撃に出ていたこともしられる。
これ以後、義益や中途衆の動向は史料上から途絶えている。