村上 隆重
むらかみ たかしげ
戦国期の海賊衆、能島村上氏の一門。当主・村上武吉の後見をつとめ、能島村上氏の最盛期を支えた。右近大夫。村上隆勝の三男で武吉の叔父。
村上武吉の擁立
近世に編纂された「譜録(村上図書)」や『陰徳太平記』によれば、天文年間の大内氏と尼子氏の抗争と当主・義雅の早世に端を発する能島村上氏の家督争いに際し、武吉を推して義雅の嫡子・義益に対抗した。このとき武吉はまだ幼く、そのため武吉派を実質的に指導して義益と戦ったのは隆重であり、武吉派の優勢が固まった後は武吉の後見として能島村上氏の代表者となっていたと推定される。
当主を補佐
天文二十一年(1551)頃の四月に陶晴賢が「村上太郎」(武吉か)に宛てた書状では、「先代」(大内義隆)が「村上右近大夫隆重」に対し、厳島で京堺の商人から駄別料を徴収することを申し付けていたが、今後はこれを認めないということが記されいる。以前は隆重が武吉にかわって大内氏らとの折衝にあたり、能島村上氏の経済活動にも大きく関わっていたことがうかがえる。
備中笠岡への進出
武吉が実質的にも当主となると、隆重は妹が笠岡の領主・陶山民部に嫁いでいたこともあってか笠岡に進出。天正二年(1574)頃に小早川隆景から当主・村上元吉を通じて「陶山領内千貫」の知行を得ている。その後は子の景広とともに毛利方の前線拠点でもある笠岡城の城主となって活動し、惣領家と毛利氏の水軍の一翼を担って活躍した。