村上 義忠
むらかみ よしただ
海賊衆・能島村上氏の一族。当主・隆勝の二男で後の当主・武吉の父。近世編纂の「譜録(村上図書)」によれば、隆勝から家督を継いだ長男・義雅の早世により、義益(義雅の子)と武吉による能島村上氏の家督争いが起こる。
惣領家と敵対
当時の武吉はまだ幼く、武吉を擁立して後見したのは義忠の弟の隆重であったとされる。この間の義忠自身の動きは「譜録」には記されていない。天文十一年四月、杉隆宣ら大内氏奉行人が伊予国中島へ渡海しようとする大内家臣・神代兼任に対して小原隆名と「村上掃部助」と相談するよう指示している。『閥閲録』の村上氏の系譜に記された義忠の官途が「掃部頭」であることから、この「村上掃部助」が義忠のことだと推定されている。
「村上掃部助」とともにみえる小原隆名はこの前年から瀬戸内海島嶼部の反大内方を攻撃する責任者であり、中島や能島をはじめ甘崎や因島など三島(能島・来島・因島)村上氏の主要拠点を攻撃している。「村上掃部助」が大内方の重要人物で、能島村上氏惣領家と敵対する立場にあったことが分かる。
足跡の消失
しかし以後、義忠および「村上掃部助」の名はみえなくなる。天文二十一年(1552)頃に陶晴賢が村上太郎(武吉)らに宛てた書状でも、「先代」(大内義隆)が厳島で京堺商人から駄別料を徴収する権利を認めた相手を義忠の弟の隆重としている。義忠自身はこのとき既に没していたのかもしれない。