甘崎城
あまさき じょう
伊予大三島の東岸、甘崎集落の約130メートル沖に浮かぶ古城島を全面的に城塞化した海城。戦国期、能島村上氏の属す今岡氏、今岡氏没落後は来島村上氏の村上吉継の拠城となった。
戦国期の伊予河野氏家臣団を記す「河野分限録」(成立は近世初期)では、上島甘崎城主として今岡民部大輔が挙げられている。今岡氏は南北朝期から河野氏家臣としての活動が確認でき、16世紀からは能島村上氏とともに行動し、天文二十一年(1552)頃の陶晴賢の書状も「村上太郎」(武吉)とともに「今岡伯耆守」に宛てられている。
甘崎城の史料上の初見は天文十年(1541)で、六月二十四日の「甘崎要害」への攻撃で負傷した白井房胤に対し、大内義隆から感状が出されている。これは友田興藤に加担した村上諸家に対して大内警固衆が六月から七月にかけて行った軍事行動の一つであり、当時の甘崎城には能島村上義益に属す今岡氏が在城していたとみられる。
その後、永禄年間に至って今岡氏は没落したとみられ、かわって来島村上氏系の村上吉継が城主としてみえるようになる。天正四年(1576)八月、伊予宇和郡板島に戻る西園寺宣久が鞆に到着した際、甘崎の村上吉継から迎えの船が出されてており、宣久は甘崎で一泊した後、堀江へと出船している。
その後、17世紀に入ると、伊予に入部した藤堂高虎のもとで甘崎城も大きく改修されるが、慶長十三年(1608)の高虎の転封とともに甘崎城は廃城となる。
愛媛県今治市上浦町甘崎