村上 吉継
むらかみ よしつぐ
戦国後期、海賊衆・来島村上氏を支えた一族の有力者。 助右衛門尉、後に河内守。 大三島東岸沖の甘崎城を居城としていた。本拠の大三島にあっては、大山祇神社(三島社)の「地頭神主」でもあり、同社の連歌奉納にもしばしば名を連ねる文化人としての側面も持っていた。
吉継の立場
吉継が来島村上氏に属していたことは、元亀二年(1571)に能美右近助の軍功を当主・牛松(村上通総の幼名)に報告していることから確認されている。一方で永禄七年(1564)には、河野氏の奉行人としての活動も確認でき、河野氏の家臣として宗家からはある程度独立した存在であったとみられる。
惣領家を支える
吉継は天文二十三年(1554)九月の岩伽羅城合戦について高野山上蔵院に報告した書状が初見。永禄四年(1561)の毛利氏と大友氏が戦った豊前蓑島沖の合戦にも水軍を率いて参戦している。
永禄十年(1567)十月に来島村上氏当主・通康が死去すると、吉継は幼い当主・牛松を補佐する形で一族を率いる立場になる。この頃、河野氏は毛利氏の支援を受けながら、宇都宮氏、一条氏と激しく交戦しているが、毛利方の小早川隆景と乃美宗勝が交わす書状には、しばしば「村河」(村上河内守の略)の動向が言及されている。
河野方に留まる
毛利氏と織田氏が戦った天正四年(1576)七月の木津川沖合戦にも吉継は来島村上の水軍を率いて参戦している。天正十年に当主・通総が河野氏から織田方に転向すると、吉継は通総に従わず、河野方に留まったことが河野通直から村上武吉宛の書状から分かる。以後、吉継の名は史料上からみえなくなる。