村上 吉郷
むらかみ よしさと
戦国後期の海賊衆・来島村上氏を支えた有力者。越後守。
豊前箕島の戦い
永禄四年(1561)十一月二日、毛利氏水軍が豊前蓑島沖で大友氏水軍を撃破した。「豊前今井・元長船戦図」によれば、このとき毛利方には、村上武吉や村上武満、村上吉充、村上吉継ら村上諸氏の将が参陣しており、そこに「村上越後守吉郷」の名もみえる。
土佐一条氏との戦い
永禄十一年(1568)、来島村上氏は伊予南部に侵攻した土佐一条氏と戦っていた。その一方で前年に当主・通康が病死する苦境にあり、小早川氏に支援を仰いでいた。そんな状況の同年五月、「来嶋」から村上越後守と原又七郎が元就の所に来て相談を行ったことが毛利元就の書状にみえる。同じく六月、来島村上氏の村上吉継が小早川家臣・乃美宗勝(当時伊予方面を担当していた)に対し、 「越河」(越後守と河内守)がいるので、境界の紛争で雑説があっても安心してほしい旨を述べている。吉郷が吉継とともに通康亡き後の来島村上氏を支えていたことが分かる。
河野陣営に留まる
天正十年(1582)四月、織田氏と毛利氏の戦争の中で来島村上の当主・村上通総は織田方へと転向。吉郷のもとにも織田氏部将・羽柴秀吉から援軍の要請が行われている。しかしこのとき吉郷と吉継は最終的には毛利・河野陣営に留まった。
秀吉への接近
天正十三年六月、休夢斎善慶から越後守に宛てて、手の筋を患った「内府様」(秀吉)が坂本に来ており、そこに来島村上氏や越後守の息子がお礼に参上したことを伝えている。また四国へ渡るための警固船を出すようも求めている。休夢斎は秀吉の御伽衆の一人とみられ、吉郷がその後、秀吉と関係を深めていたことが窺える。