坂本(三津浜、戸津)

さかもと

 琵琶湖南西岸に位置し、湖北の港から運ばれる物資の陸揚げ港を担うとともに、比叡山延暦寺や日吉大社の門前町として栄えた港町。

 坂本には一般民に加え、僧や職人、参詣者など多数の人間が居留しており、建暦元年(1211)の大火では在家二千軒が罹災しており、当時膨大な人口を抱える消費都市であったことがうかがえる。 また中世、坂本や大津には貢納物を保管する問や、運送業者の馬借や車借がおり、彼らにより物資は近郊や大消費地・京都へと運ばれた。

 応永三十三年(1426)、北野社を本所とする京都麹座が酒の製造、販売を独占したことによる洛中の米価暴落に抗議して、坂本の馬借が北野社、祇園社に乱入するという事件が起きている。ここから、従来京都での酒米は坂本経由で運ばれていたとみられ、米の価格変動が発端となっていることから、坂本の馬借は米商人も兼ねていたとみられる。彼らは土一揆や徳政一揆の主体となり、また延暦寺の先兵として幕府らと対峙する一大勢力であり、その根拠地である坂本は畿内における流通、政治上の重要都市であったと思われる。

 元亀二年(1571)九月、織田氏の比叡山焼討ちにより、坂本もまた大きな被害を受ける。『日吉兵乱火災之記』によれば「坂本町々人家寺庵」が焼失したとされ、その被害とともに、複数の町で構成される大きな都市であったことが分かる。その後は、明智光秀の安定した治下で城下町として栄える。

神社・寺院

  • 日吉大社

城郭

  • 坂本城

参考文献

  • 綿貫友子 「中世の都市と流通」 (『日本の時代史11 一揆の時代』) 吉川弘文館 2003