村上 景広

むらかみ かげひろ

 能島村上氏の重臣・村上隆重の子。八郎左衛門、弾正忠。父・隆重とともに備中笠岡に進出して以後は、主家を支えつつも小早川水軍としての活動もするようになる。

威徳寺から眺めた古城山。この山に笠岡城が築かれ、景広や父の隆重が在城した。
威徳寺から眺めた古城山。この山に笠岡城が築かれ、景広や父の隆重が在城した。

木津川口海戦への従軍

 景広の活動は元亀二年(1572)頃に毛利方水軍として活動した微証があるが、本格的な活動は天正四年(1576)に大坂本願寺を支援する毛利方水軍が織田方水軍を破った木津川口海戦から。合戦に参加した武将の連署注進状に「少輔五郎景広」がみえ、七、八月には小早川隆景、毛利輝元からも感状を得ている。

小早川水軍としての活躍

 その後、笠岡が毛利氏の東上作戦の基地となったこともあり、小早川隆景のもとで讃岐本吉城攻撃や坂越、英賀など播磨方面での警固活動、備前常山城への援軍、備前庭妹城への兵糧輸送などに景広が関わっていることが確認できる。笠岡を拠点とする隆重、景広父子は宗家から比較的独立した存在であったとみられ、毛利、小早川氏との関係の中で、景広が実質的に小早川水軍の一翼を担っていたことがうかがえる。

 『武家万代記』によれば、天正十五年(1587)、島津征伐のために下向してきた豊臣秀吉に対し、景広は小早川隆景の家臣として「御目見」をすませたとしており、この時には小早川家臣団の一員となっていた。その後、文禄の役でも活躍したとされるが、慶長二年(1597)に小早川隆景が没すると小早川氏を離れ、毛利氏に仕えた。

細川忠興に仕える

 慶長五年(1600)、毛利氏が関が原で破れると隆景遺臣らの召し放ちを図ったため、景広は慶長六年に出奔。豊前の細川忠興に仕えた。豊前小倉城の石垣からは「村八、大組」「村上八郎左、東組□月八日」などの墨書が見つかっており、これは当時小倉藩に仕えていた村上八郎左衛門(景広)が石垣普請の際に書きつけたものとみられている。石垣普請を任されていることから、細川家中での地位は高かったことがうかがえる。

 慶長十九年(1614)の大坂冬の陣の際には弓組に属して三百十八人を率いた(「綿考輯録」)。寛永四年(1627)、七十三歳で死去した。

関連人物

  • 村上隆重:景広の父。
  • 村上景則:景広の子。
  • 村上武吉:景広の従兄。能島村上氏最盛期の当主。

その他の関連項目

  • 笠岡城:笠岡に移った村上隆重が同地に築城した。

参考文献

  • 山内譲 『海賊と海城 瀬戸内の戦国史』 平凡社 1997