臼杵
うすき
豊後国臼杵湾の最奥部に位置する港町。永禄五年(1562)頃、大友義鎮によって丹生島城が築かれて以降、大友領国の政治・経済の中心として発展した。
弘治元年(1555)から翌年にかけて日本を訪れた明国の鄭瞬功が記した『日本一鑑』には、豊後の明船寄港地として佐賀関や府内などとともに臼杵も挙げられており、国際性も持つ重要な港湾であったことがうかがえる。大友氏も貞治三年(1364)、臼杵を同氏直轄領としており、古くから重視していたことが知られる。
文禄二年(1593)の「豊後国海辺郡臼杵庄御検地帳」によれば、当時の臼杵には唐人町、畳屋町、唐人懸ノ町、海添中町、横浜町、吉水小路片町、浜町、菊屋町、横町の九町と祇園洲から構成され、田畠屋敷総数・四〇四筆のうち、実に三七五筆が屋敷であるなど、戦国末期には大規模な都市となっていたとみられる。これら、臼杵の町は大友氏の計画的な都市建設プランのもとで、府内の町人を誘致して新たに町立てされたものと推定されている。
南蛮、中国貿易を行う大友氏のもとで、臼杵は国際貿易港として発展した。唐人町などには陳元明など明国からの渡来系技術者など外国人が居住・営業しており、イエズス会も司祭や修道士を臼杵に常駐させて、天正八年(1580)には当時インドのゴアにしかなかったノヴィシャド(修錬院)を臼杵に開設している。また唐人懸ノ町に居住した豪商・仲屋宗悦は堺・京都や明人との貿易に従事して莫大な富を得ており、屋敷地が唐人懸ノ町の過半を占めるに至っている。