府内(豊後府内)
ふない
中世、豊後を支配した大友氏の城下町。大分川河口西岸に位置する。大友氏のもとで国際貿易港として繁栄した。
鎌倉期「府中」の繁栄
仁治三年(1242)、大友頼泰は「府中」に「新御成敗状」 を発布し、町での押買や大路通行の妨害などの禁止を定めている。鎌倉期には町人が活発に活動する市町であったことがうかがえる。
国際貿易港
鎌倉期の「府中」が「府内」と呼ばれ、都市として繁栄を極めたのは戦国期といわれる。その背景の一つに対外貿易がある。大友氏は室町・戦国期の遣明船派遣に関わり、非公式ルートでは対朝鮮貿易や対琉球貿易、対明貿易にも関与していた。
東南アジアとの交易
さらに天正元年(1573)頃の史料からは大友氏が「南蛮」(東南アジア)に直接貿易船を送っていたことも確認できる。15・16世紀、大友氏が幕府に白砂糖や猩々皮など輸入品を恒常的に贈っていることや、府内の発掘調査で中国・朝鮮産陶磁に加えてタイやベトナム、ミャンマー産の陶磁器が大量に出土したことなどは、輸入品があふれる府内の活況をうかがわせている。
このため、府内には陳氏をはじめとする渡来系の職人も「唐人町」などを形成して多く住み、京・堺・博多からも商人が来住して取引を行っていた。また宗麟がキリスト教を受容した後はポルトガル船の来航と宣教師の逗留により、キリシタン文化の拠点ともなる。
町家数五千の大都市
日本屈指の大都市となった府内について、天正十四年(1586)十一月、羽柴秀吉の部将・千石久秀は「府内之町家数五千計御座候」と報じている。大まかに推計して、当時の府内は数万人規模の人口を抱えていたことになる。そして、まさにこの翌月、府内は島津氏の軍勢に蹂躙されることになる。