仲屋 乾通
なかや けんつう
享禄・天文年間頃に豊後府内でにおいて対外貿易で巨利を築いたといわれる豪商。戦国末期の臼杵の豪商・仲屋宗悦の父。ただ、仲屋乾通は江戸期の編纂物にはみえるが、当該期の一級史料では存在を確認されていない。
江戸期編纂の『雉城雑誌』によれば、「華夷ノ商船」(外国船)の豊後府内への入港は、大友氏の武威だけではなく仲屋乾通の力によるものであったという。乾通の晩年には、その富栄は関西一となり、「蛮夷ノ商舶」が日本に来航しても乾通が手付けをするまで値が決まらなかったとされる。
同じく江戸期編纂の『豊府紀聞』にも乾通についての記載があり、九州に中国の商船が着岸した際にこれを統括し、京堺その他の地域から集まった多くの商人も乾通を恐れて、彼が到着するまで値を定められなかったとしている。さらに両史料とも江戸期に至ってもなお、長崎での中国貿易では乾通の「遺秤」が用いられていると記している。
これらの記載内容から、仲屋乾通が来航する外国船と各地の商人との取引において、自身の秤による計量で商品の値段を決定するといった、いわば貿易統括権ともいえる権限を持つ豪商であったことがうかがえる。
16世紀後半、銀が急速に普及するなかで九州各地の市町や港町には「計屋」と称する計量商人が生まれており、府内の遺構からも青銅製の天秤皿や分銅の錘が検出されている。乾通もまた「計屋」としての性格を持ち、流通上で重要な地位を占めて富を蓄積していったのかもしれない。