仲屋 宗悦
なかや そうえつ
戦国末期、京堺や東アジアとの貿易で莫大な富を得た臼杵の豪商。『大友興廃記』によれば、宗悦は大坂、京、堺にも拠点を持ち、外国船来航の際は、船の口開きを行う権限と、一人で積荷の過半を買い取る財力を有していたという。
臼杵の豪商
文禄二年(1593)の「豊後国海辺郡臼杵庄御検地帳」の唐人町懸ノ町の名請人に「宗悦」の名が確認できる。これによれば、宗悦は臼杵の唐人町懸ノ町に屋敷を六筆を有し、その敷地面積は、1町一反六畝二六歩(同町の55%)を占めており、桁外れの豪商であったことが分かる。
海外との貿易
『豊府紀聞』には、明の商人・林存選が宗悦に宛てた書簡が掲載されている。カンボジアから薩摩・阿久根に来航していた林存はが、宗悦に直接会いたいが出航できない状態を伝え、カンボジアで手に入れたとみられる「花幔」(花模様の幔幕)を贈っている。上記の『大友興廃記』の記述をふまえれば、宗悦が懇意の明商人を通じて、中国、東南アジアとの貿易に関わっていたことが窺える。
御用商人としての活動
一方で宗悦は経済活動を通じて大友氏に仕える御用商人でもあった。天正十三年(1585)閏八月十三日付で大友義鎮が筑後在陣中の義統に宛てた書状の中では、当時商用で肥後国内に滞在していた宗悦が、阿蘇・三船、隈庄方面での島津方の動きを豊後に報告している。翌天正十四年四月、義鎮は羽柴秀吉に援軍を要請するため大坂に上がるが、宗悦もこれに随行し、義鎮や浦上道冊ととも堺で天王寺屋宗及、道叱らの茶湯接待を受けている。
さらに翌年二月にも、宗悦は大友氏の使者として同氏重代の家宝である「平釜」を携えて上坂した。この時の大友氏の使者は宗悦のみであったとみられるが、その任務は秀吉に援軍を重ねて催促するという大友氏の命運を賭けた重要なものであった。この時の宗悦の働きから、彼が単なる経済的豪商であるのみならず、大友氏政権の中で多大な信頼を得た政治的豪商でもあったことを知ることができる。
豊臣秀吉への便宜
天正十六年(1588)六月、当時たまたま上洛していた宗悦は、秀吉から方広寺大仏造営のための便宜を図るよう求められた。八月、宗悦は秀吉の使者として肥前平戸の松浦氏のもとに赴き、平戸の中国人大工・古道の上洛を促している。古道は、天正六年五月に大友義鎮から「分国中津々浦々諸関」での通航課税免除特権を得ている人物であり、経済活動を通じて宗悦と以前から繋がりを持っていた可能性が高い。
上記の天正十四年および十五年の二回の接触を通じて、秀吉は宗悦の利用価値を認めたものと思われる。宗悦はこれにより、大友氏を基点とする活動から、より上位の豊臣秀吉を基点とするルート上で活動する、いわば豊臣政権下の豪商に成長していったのである。