九和
きゅうわ
戦国末期、大友義鎮(宗麟)の居城・丹生島城の城下町である臼杵に居住した豪商。臼杵では仲屋宗悦につぐ屋敷地を持ち、大友氏の家臣団名簿にも名を連ねていることから同氏の御用商人であったとみられる。
臼杵唐人町の豪商
九和の名は文禄二年(1593)の「豊後国海辺郡臼杵庄御検地帳」に名請人の一人としてみえる。九和は臼杵唐人町懸ノ町に屋敷一筆を持ち、その面積は三反一畝五歩であった。この数字は「検地帳」においても仲屋宗悦につぐ第二位の持高となっている。「検地帳」にみえる名請人の平均的な屋敷面積が一畝強であることから、平均の三十倍にもなる屋敷地を有する九和は、臼杵の豪商の一人であったと推定されている。
大友氏の御用商人
また「大友家文書録」の中にある、戦国末期の大友家臣百六十五名を書き並べた断簡にも九和の名が「仲屋石□」と並んで記載されている。
「仲屋石□」と同一人物かは不明だが、上記の仲屋宗悦は大友氏の援軍要請の使者として羽柴秀吉に謁見したり、義鎮に随行して上洛するなど経済的な面だけでなく政治的にも大友氏を支えた豪商。九和もまた大友氏の御用商人として宗悦のような役割を担っていたのかもしれない。