計屋 与三左衛門
はかりや よそうざえもん
戦国末期、豊後臼杵の唐人町で計屋を営んだ商人。
伊勢参詣する人々
天正十八年(1590)三月、「唐人町計屋与三左衛門」が御師福嶋御塩大夫の世話のもとで伊勢参詣したことが「天正十六年参宮帳」にみえる。与三左衛門のほかには「はまの町彦四郎」や「よこ町竹内雅楽助」、「かけや林清左衛門」、「かけや金山左京助」、「唐人町矢野百衛門」らがいた。
臼杵唐人町の商人
この臼杵唐人町の「与三左衛門」は、この三年後の文禄二年(1593)の「豊後国海辺群臼杵庄御検地帳」にもみつけることができる。これによれば、与三左衛門は臼杵唐人町の計七十三軒の屋敷群の一角に一畝十二歩の屋敷を有して商業活動を行っていたことが確認できる。
計屋
与三左衛門が営んでいた「計屋」は、16世紀後半期の九州における社会的流通を前提に、市・町・港という交易の拠点での銀の秤量を担った商人と推定されている。与三左衛門のような「計屋」が現出した背景には、天文二年(1533)に石見銀山で灰吹法による銀精錬が可能になって以降、銀が急激に増産され、九州だけでなく国際的な貨幣としても流通するようになっていたためとみられている。与三左衛門が住んでいた臼杵は東九州を代表する交易拠点であり、その中でも唐人町は多くの渡来系の職人が居住・営業する町であった。
臼杵では、与三左衛門のほかにも「斗(計)屋右馬助」なる人物が存在しており、元亀二年(1571)頃に没している(『宝岸寺霊簿』)。
大友氏の衡量制政策
また臼杵は豊後大友氏のお膝元であり、同氏が進める衡量制政策の拠点都市でもあった。天正十六年(1588)六月、大友義統は佐賀関代官に向けて十一か条の法度を発給しているが、その第二条で、佐賀関の上浦と下浦に「計屋」の設置を命じるとともに、その営業形態を「府内・臼杵と同前なるべし」と規定している。大友氏は府内・臼杵・佐賀関の主要三都市に同一規格の天秤と分銅を使用する「計屋」を設置することで、計量基準の標準化を進めていたとみられる。臼杵の計屋与三左衛門もこのような大友氏の衡量制政策の一端を担っていたのかもしれない。