赤間関(下関)
あかまがせき
本州と九州、瀬戸内海と日本海の結節点である関門海峡の本州側に位置する港町。古来より京都と外国を結ぶ国際通行の要としても重視されるなど、その地勢的価値により国内外の流通・交通の要衝を占めて栄えた。
水運の一大拠点
既に鎌倉期には「関」が置かれる海路の要衝であり、阿弥陀寺門前に町屋が形成され、多くの人や船が行き交っていた。室町期、大型船舶を含む赤間関船が畿内に物資を運び込んでおり(『兵庫北関入船納帳』)、戦国期には有力商人・佐甲藤太郎が海賊衆・能島村上氏から通行許可の「紋幕」を得るなど、広域にわたる内海水運の一大拠点となっている。
大内氏の国際港
室町期以降は大内氏領国内の要港として国際港的性格も強めていく。赤間関は、朝鮮の使節が対馬から直接赤間関に来航した例もあるなど直接対馬・朝鮮と繋がる港だった。幕府・大内氏と朝鮮使節との交渉の場ともなり、おそらくは大内氏の対朝鮮通交の基地も担ったと思われる。大内氏主導の遣明貿易においても、貿易収入の分配や物資集散など、貿易機構の中で重要基地を担っており、赤間関が中国・朝鮮に開かれた国際貿易港であったことがわかる。
毛利氏時代の海外貿易
これは毛利氏時代も同様と推定される。永禄五年(1562)、毛利隆元が朝鮮に使節を派遣しており、同じ頃に有力商人・伊藤盛重も対馬・宗氏と提携して朝鮮貿易への参入を図っている。戦国末期には毛利氏の赤間関代官・高須元兼が明国泉州の商船の入港を保障し、外国産品の入手を担当している。