赤間関地下中

あかまがせき じげちゅう

 赤間関に居住する様々な階層からなる地下人(町人)の総称。または彼らにより構成される組織。関役人・問丸として大内氏や毛利氏と結ぶ、佐甲氏や伊藤氏などの上層の特権商人を指導者として構成されている。

  天文二十三年(1554)以前、赤間関地下人は、佐甲藤太郎の指導のもとで警固船を準備して海賊と交戦しており、佐甲氏ら上層指導者の下で結束し、独自の武力・防衛能力を保持していた。また弘治三年(1557)、長門に侵攻した毛利氏に対しては長府の地下人とともに交渉し、同氏軍勢の狼藉に対する防戦権を認めさせるなど、大名権力にとっても決して無視できない実力を持っていたことがうかがえる。

  しかし、支配者と結んで特権を持ち、関役料を徴収する佐甲氏ら指導層と、徴収される地下人との間には対立関係も存在し、指導層に対する関役解任要求が出されることもしばしばあった。天正年間には佐甲氏、伊藤氏らの解任を求めて赤間関地下人が逃散するという事態にまで発展し、毛利氏により両氏が解任・追放され、逃散した地下人の早期帰関がはかられている。

 大内氏時代は地下人の要求は事実上却下されていたのに対し、毛利氏が地下人の要求受け入れに踏み切った背景には、赤間関の発展にともなう地下人の実力向上があったとみられ、またそのために指導層との矛盾も拡大したといわれる。なお、地下人の逃散は江戸初期になってもみられる。

 

関連人物

その他の関連項目

参考文献

  • 岸田裕之 「大名領国下における赤間関支配と問丸左甲氏」(『大名領国の経済構造』) 岩波書店 2001