金平糖
こんぺいとう
戦国期、日本に来航したポルトガル人によってもたらされた表面に角状の突起による凹凸をもつ球形の砂糖菓子。語源はポルトガル語のコンフェイト“Confeitos”。
高級なお菓子
戦国期は、砂糖自体が贈答品としても用いられる高級品であったことから金平糖もまた高級品の部類に入り、ルイス・フロイスら宣教師はこの金平糖をガラスの小瓶に入れて贈答品に用いている。
もっとも金平糖は砂糖の生産地を支配するポルトガル本国においても高価な菓子であり、1469年、マデイラ島(ポルトガル領、砂糖の一大生産地)の市民が子爵に宛てた手紙には「アルフェニンとコンフェイトはお金持ちしか食べられない」と記されている。
日本人の好みにあう
フロイスの書簡によれば、永禄十二年(1569)四月、フロイスは京都で織田信長に謁見した際、蝋燭数本とともに金平糖入りのフラスコ一つを贈っており、その後も金平糖入りのガラス瓶を贈っていることが確認できる。
また天正五年(1577)八月、フロイスは中国から日本へ渡ろうとしている巡察師のアレッサンドロ・バリニャーノに宛てた書簡の中で日本の大身たちが珍重する物を挙げ、日本での贈答用にそれらを調達して来日するよう助言している。この中でフロイスは眼鏡や羅紗のカッパ、伽羅・沈香などとともに上等な砂糖漬や蜂蜜、壷入りの砂糖菓子そして「瓶入金平糖」を挙げており、日本で金平糖をはじめとする砂糖系の甘い菓子が好まれていたことが窺える。
特に宣教師らはキリスト教の布教活動にからめて金平糖を使ったらしく、17世紀前半に小瀬甫庵の著した『太閤記』は、伴天連が下戸に対しては「かすていら」や「あるへい糖」、「こんべい糖」などでもてなして勧誘していたとしている。
本格的な輸入
寛永十四年(1637)、オランダ商館長・ニコラス・クーケバッケルの日記によれば、ポルトガル船によって運ばれた品の中に「各種コンペイトウ三千斤(約1800キログラム)」がある。また佐賀藩の坊所鍋島家資料の慶長十四年(1609)頃の条に「沈香十両、コンペイトウ壱斤」を贈られたことについての礼状がある。細川家文書の『萬覚帳』の寛永元年(1624)には、長崎から到来したコンペイトウがみえる。
『隔冥記』の寛永二十年(1643)には、肥後の人が京都へコンペイトウを土産にしたと記されている。平戸や長崎に陸揚げされたコンペイトウは各地で贈答品に使われたことがうかがえる。
市場・積出港
その他の関連項目
参考文献
- 樋口清之 『新版 日本食物史 -食生活の歴史ー』 柴田書店 1987
- 村上直次郎・訳 渡邊世祐・注 『異国叢書』耶蘇会士日本通信・下 雄松堂書店 1928
- 荒尾美代 「南蛮菓子と砂糖の関係」 2005(ALIC-農畜産業振興機構|砂糖類情報)
- 江後迪子 『南蛮から来た食文化』 弦書房 2004