砂糖(輸入)

さとう

 サトウキビやテンサイなどから抽出した糖分を結晶化させた天然甘味料。紀元前2000年頃にはインドで砂糖が使われていたといわれる。

砂糖の伝播

 中国には7世紀頃に伝わっており、『木草綱目』沙飴の項には、唐の太宗が初めて人を遣わしてその法を伝え、(砂糖の製法が)中国に入る、とある。日本における砂糖渡来の早い例としては、天平勝宝六年(754)に来日した唐の僧鑑真の持参品に「石蜜・蔗糖五百余斤、蜂蜜十斛および甘蔗八十束」がみえる。日本でも砂糖は当初、薬用品として用いられた。

西国大名からの贈答品

 中世においても砂糖は中国など海外から輸入されていた。永正七年(1510)、京都を訪れた大内義興の家臣・竜崎道輔が手土産に砂糖一桶と茶碗を携えており(『実隆公記』)、天文九年(1540)には大友義鑑から京都の大館晴光や伊勢貞丈へ白砂糖が贈られている。大内氏、大友氏はともに中国との貿易が知られる。

 この他にも応永十七年(1410)頃に後小松天皇に「沙糖」を贈った薩摩の島津元久や天正八年(1580)六月に織田信長に鷹と砂糖三千斤を贈った土佐の長宗我部元親(『信長公記』)の例もある。島津氏は16世紀末頃から徳川家康に何度も砂糖を贈っていることが史料にみえる。島津氏、長宗我部氏もまた琉球経由の海外貿易の中で砂糖を入手していたと推定される。

砂糖の流通

 『陰涼軒目録』の明応元年(1492)には「泉里より取り寄せ、一斤二五〇目云々、三斤代一貫五〇〇文、ただし上等品ではない」とある。15世紀末における砂糖の市場での流通を確認できる。時代は下り、奈良興福寺の僧英俊の『多聞院日記』には、天正九年(1581)に「堺にて買い来たるサタウ三斤の代、四三三文」とある。また別箇所では奈良では堺の二倍の値段であるとも述べている。

 また『大和田重清日記』によれば文禄二年(1593)七月末、佐竹義宣の家臣・大和田重清は義宣の指示で買い付けのために長崎を訪れ、緞子や薬種、手火矢、塩硝などを購入した後、平戸に赴いて白砂糖を求めたが得られず、仕方なく黒砂糖二十斤を銀九匁で買っている。重清は長崎の宿で砂糖を用いた料理や白砂糖を食べているが、長崎では砂糖を買っておらず、平戸では砂糖のみ購入している。長崎で砂糖が得られず平戸に足をのばしたのだろう。

砂糖の普及

 室町・戦国期には、依然として砂糖は貴重品ではあったが、一方で普及も進み、料理の添え物としてやお菓子の甘味料としても用いられるようになった。当時の史料には「サトウ羊羹」、「砂糖饅頭」、「砂糖餅」などがみられ、砂糖を用いた和菓子の原型が現れている。

市場・積出港

  • 府内(豊後):豊後大友氏の城下町。大友氏の中国貿易、東南アジア貿易で栄えた。
  • 長崎:イエズス会が主導する南蛮貿易の拠点。
  • 平戸
  • ホイアン:ベトナム中部の港町。宣教師ロードは砂糖を日本に輸出していると記している。

その他の関連項目

  • 羊羹
  • 甘葛:砂糖以前の日本の代表的な甘味料。

参考文献