平戸

ひらど

 五島灘の東北方向にある平戸島の北部、北松浦半島と相対する平戸瀬戸に臨む港町。松浦党の平戸氏(後に戦国大名化して松浦氏を称する)の本拠地。天然の良港であり、17世紀に平戸に滞在したオランダ人ヘンドリック・ハーヘナールは「後ろに大なる山を負い前に狭き海峡あり、いかなる暴風も港内に影響を及ぼすことなし」と記している。中世から大陸との航路の重要な寄港地であり、国際貿易の拠点であった。戦国期にはポルトガル船の入港も加わって繁栄した。

戦国期の平戸

 ガスパル・ビレラの書簡によれば、弘治三年(1557)当時、平戸には富裕な商人らがおり、彼らは戦の気配を感じた際には進物をもって自ら交渉にあたり、町への戦禍を回避していたという。平戸は商人たちの高い経済力を背景に自立して平和を維持する自治都市としての性格ももっていたことがうかがえる。

  平戸の人口について、ガスパル・ビレラは元亀二年(1571)当時、平戸に約5000人のキリシタンがいるとしている。一方で天正十二年(1584)に平戸に来航したフライ・パブロ・ロドリゲスは、平戸には2000人の人口があったする。

 平戸の家並みは松浦隆信の時代には全て萱家であり、隆信の子の鎮信の時代に板家になったという(『大曲記』)。

海外貿易による繁栄

  『大曲記』には松浦隆信の時代のこととして、平戸に「大唐」(中国)から「五峯」という者がやって来て印山寺屋敷に「唐様の屋形」を建てて来住したことが記されてる。この五峯とは、倭寇の頭目・王直であるといわれる。

 五峯(王直)は、平戸の館を拠点に中国との貿易を展開。さらには「南蛮のくろ船」(ポルトガル船?)も平戸に来航したので、平戸には中国や南蛮の珍物が次々と集まり、それらを求める京・堺の商人や諸国の人々も集まってきた。このため西の都と称されたという。

  『大曲記』の記述は来日したポルトガル人宣教師たちの書簡からある程度裏付けられる。コスメ・デ・トルレスは1557(弘治三年)十一月七日付書簡の中で、「(平戸に)日本全国の異教徒の商人多数同地に赴き、またポルトガル人は年々多くは同所に来れり」としている。ルイス・フロイスも1564(永禄七年)十一月七日付書簡の中で「平戸港は支那より来る商品販売の大なる開港場」と述べている。

平戸在住の中国人

 平戸に来住した王直以外の倭寇の頭目としては、少し時代は下るが顔思斉や李旦、鄭芝龍等が挙げられる。中国人大工の古道という人物も平戸に在住しており、天正十四年(1586)八月に京都方広寺の大仏作事のため豊臣秀吉に上洛を求められている。

 また1560(永禄三年)十二月一日付ゴア発のゴンサロ・フェルナンデスの書簡には、中国人の船で来航したポルトガル人を平戸の中国人が血祭りに上げようとした事件が記されているので、当時の平戸には多数の中国人が居留していたことがうかがえる。

キリスト教勢力との軋轢

 平戸に初めて南蛮船が入港したのは天文十九年(1550)。以降、永禄五年(1562)までほぼ毎年南蛮船が入港していることが史料上確認できる。これにともないキリスト教の布教も盛んになり、フランシスコ・ザビエルなど多数の宣教師が平戸で活動して信者を増やしていった。

 一方で仏教勢力等との間に軋轢を生み、松浦氏領内の緊張は高まった。このため、当初はキリスト教に対して好意的であった領主・松浦隆信もしだいに態度を硬化させていく。

 それでも南蛮船の入港は続き、永禄四年(1561)には一挙に五艘が入港した。ルイス・デ・アルメイダは、この年、90名のポルトガル人が平戸にいたとする。

宮の前事件

 そんな永禄四年八月、綿布取引でのトラブルをきっかけにカピタン・モールと13名の南蛮船の乗員が松浦氏家臣らによって殺害される(「宮の前事件」)。これによりポルトガル人と松浦氏との関係は急速に悪化。日本布教長コスメ・デ・トルレスは永禄五年に平戸に入港した南蛮船を大村純忠領の肥前横瀬浦に回航させた。

 以後、大村氏領の福田浦を経て長崎が南蛮船の入港地として台頭する。

大火災

 さらに悪いことに永禄七年(1564)正月四日、平戸は大火にみまわれ町の大半が焼失した。火災後は町にわずかの住民しかいなくなり、海賊が時々その地を襲って略奪したり、住民を拉致するまでになったようである。

新たな海外貿易

 天正十二年(1584)六月、フィリピンのマニラを出航した南蛮船が平戸に来航。時の当主松浦鎮信はこれを歓待し、さらに家臣・吉近はるたさに書簡を託してマニラに渡航船を派遣している。はるたさは天正十五年(1587)にもマニラに渡航。船には商品が搭載されており、目的は貿易であったとみられる。

 鎮信は「暹羅(シャム)」との通交関係も結んでおり、松浦氏が「暹羅」の「御皇」に宛てた天正五年の書状案も現存している。

  17世紀初期にはオランダ商館、次いでイギリス商館が平戸に開設される。李旦、鄭芝龍ら平戸を拠点とする中国人海商の活動も活発であり、また松浦氏による朱印船貿易も開始されるなど、平戸における海外貿易は新たな局面をむかえていく。

Photos

 

神社・寺院

  • 天門寺:教会。永禄七年(1564)秋に落成。

人物

  • 伊藤四郎左右衛門:平戸弘定の時代、平戸に襲来した有馬軍を海戦で破った。
  • 安藤市右衛門:平戸の有力商人。松浦氏の御用商人的な立場にあった。
  • フランシスコ・ザビエル:天文十九年(1550)のポルトガル船の平戸入港にあわせて平戸を訪問。その後も2度訪れている。
  • ガスパル・ビレラ:宣教師。弘治三年(1557)から平戸に駐在。積極的(あるいは暴力的)な布教を展開。その為仏教勢力との軋轢が増大し、松浦隆信によって平戸から追放された。
  • バルタザール・ガゴ
  • 張忠:元明国の臣。朝鮮に亡命しようとするも平戸に漂着した。後に大内義隆の招きで、周防に向かった。
  • 古道:天正六年五月に大友義鎮から「分国中津々浦々諸関」での通航課税免除特権を得た人物でもある。後には台湾向け朱印船の「唐人かぴたん」にもなった。
  • 王直:中国人海商。倭寇の頭目。五島、平戸に拠点をもって密貿易を展開した。1557年、明朝に誘殺された。
  • 李旦:中国人海商。福建省泉州出身。はじめマニラを拠点とするが、のち平戸に移住。
  • 鄭芝龍:中国人海商。李旦の傘下に入り平戸に住んだ。李旦の死後、その勢力を引き継いだ。
  • 鄭成功:鄭芝龍の子。母は日本人の田川マツ。平戸で生まれた。
  • 籠手田安経:松浦氏老中。キリシタン。
  • 吉近はるたさ:松浦氏家臣。平戸・マニラ間を何度も往復した。
  • 大曲藤内:松浦氏家臣。寛永年間に『大曲記』を著した。

商品

  • 鉄炮(平戸):『大曲記』には平戸で鉄炮が製造されていたことが記されている。鎌倉期からの刀鍛冶技術が背景にあったとみられる。
  • 石火矢:松浦氏はハラカン砲や石火矢も輸入していたという(『大曲記』)。
  • 焔硝(輸入)
  • 砂糖(輸入)
  • 金平糖:近世初頭、ポルトガル船の積み荷にあったことが確認できる。
  • 虎:天正三年(1575)七月、島津家久は平戸に停泊中の唐船の中で4匹の虎の子を目撃。それは「なんはん(南蛮)」から「豊後殿」(大友宗麟)への進物だった(「中書家久公御上京日記」)。

城郭

  • 白狐山城
  • 平戸城

その他の関連項目

  • 宮の前事件
  • 福田浦合戦:永禄八年(1565)、肥前福田浦に入港した南蛮船を松浦軍が襲撃。ポルトガル人との関係悪化は決定的となった。

参考文献

  • 外山幹夫「松浦氏の領国支配」(『中世長崎の基礎的研究』 思文閣出版 2011)
  • 的場節子 「日本人の南方進出と日西遭遇」(『ジパングと日本 日欧の遭遇』 吉川弘文館 2007)
  • 安野眞幸「国際貿易港平戸と南蛮貿易」(『港市論ー平戸・長崎・横瀬浦』 日本エディタースクール出版部 1992)
  • 鹿毛敏夫「戦国大名と「南蛮」」(『アジアン戦国大名大友氏の研究』 吉川弘文館 2011)